「大江戸の誕生」4 利根川東遷事業と治水・利水
江戸幕府最大の土木工事とされる「利根川東遷事業」。それまで江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川の流れを東へと変え、銚子から太平洋へと流れ込むようにした。この大事業が始まったのは、家康が江戸入りして4年後の1594年。そして終わったのは、1654年。約60年、家康、秀忠、家光、家綱の四代将軍の治世にまたがって行われた大事業だった。
なぜ、幕府は途方もない時間、労力をかけて利根川の流れを変えたのか?川の氾濫による洪水から江戸を守るため。以前は、このような「治水」の観点から考えられてきた。しかし、利根川の洪水が江戸を直撃したことはなかったし、「荒川の瀬替え」事業を見ても洪水被害をを覚悟の上で行っている。それは、「治水」よりも「利水」、すなわち「舟運確保」をより重視したのだ。 当時の江戸を中心とした水運をトータルに見てみよう。上方市場圏の中心の大坂と江戸を、定期的・商業的に結ぶ海運航路は、元和6年(1620)に、菱垣廻船組織として実現。ついで正保年間(1644~48)には樽廻船組織もできて、両者は競争関係の下に発達し、盛衰を繰り返しながら明治まで続く。さらに寛文年間(1661~73)には、川村瑞賢によって、東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路、東北と大坂・江戸とを結ぶ西廻り航路が整備され、、本州の沿岸は初めて商業航路で結ばれ、各地の市場圏が全国的規模で統合された。
ところで東廻り航路は、東北地方の日本海沿岸から江戸までどのようなコースだったか?津軽海峡を経て三陸沖—―仙台――那珂湊—―鹿島灘—―房総半島沿岸。ここまでは別に当然のコース。不思議に感じるのは、この後すぐに江戸へ向かわないこと。一旦、伊豆下田へ帆走し、そこで風待ちをして江戸へ入るのだ。木造の帆船で太平洋沿岸を航海するには、こうした遠回りが必要だったのだ。しかしこれでは、風待ちの日数がかかるうえ、多くの困難と犠牲がともなった。とくに銚子湊の内外には廻船の難破した残骸が山のようにあり、遭難者の千人塚などが随所に見られたほどだ。 そこで、これにかわるコースとして那珂湊または銚子湊まで運ばれた物資を、川舟に切り替えて北浦・霞ヶ浦をへて、内陸部の大小の河川づたいに江戸まで運ぶコースがあった。「奥川廻し」または「内川廻し」といわれた河川舟運である。このコースの中には、例えば那珂湊と北浦または霞ヶ浦の陸路も含まれていたし、さらに季節によっては水量不足の河道をソリのように曳き舟する部分もあり不便も多かった。それでもこの航路は、航行日数の予定が立たない外洋コースよりもはるかに有利であったため、大いに利用されたのである。利根川東遷事業(利根川の瀬替え)は、この「内川廻し」コースのすべてを、より安定した水路として確保するための計画であり事業だったのである。
この「内川廻し」舟運。二つの経路と役割があった。一つは、この舟運で房総半島沿岸の干鰯(ほしか。いわしを干して魚肥としたもの)や〆粕(しめかす。茹でて魚油を絞った後の搾りかすで乾燥させて肥料とされた)といった、上方向けに「輸出」する肥料を深川に集積し、これらを江戸湊沖合の廻船泊地まで艀(はしけ)で運び、積み込むまでの経路で、実質的には東廻り海運コースの一部としての役割を果たした。もう一つは、関東地方一帯の物資(地廻り物)を江戸に集める役割だった。こうした地廻り物の湊も、深川地区に成立していた。
(広重「江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟」)
隅田川河口の佃島沖は廻船停泊地の一つ。ここで川舟に荷を積み替え、各河岸へ輸送した。
(渓斎英泉「江戸八景 芝浦の帰帆」)
(北斎「冨嶽三十六景 上総ノ海路」) 弁財船
(江戸時代の海運航路)
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