「生きるとは」3 島崎藤村『春』③
藤村は〈人生の春〉を描かなかったのではない。描けなかったのだ。それは、自分の運命の根源に横たわる〈家〉を見出してしまったからだ。
「藤村は岸本を通して自己の運命をじかに見つめはじめた・・・そうした〈私〉への回帰が最後に危機の根源としての〈家〉へまでたどりついたのである。・・・自己へ集中する意識が現実の凝視を強いられて家の意味を発見した。・・・青春の漂泊をなぞりながら家の実態が発見されたのである。むろん、現象としての家ではない。日本近代の矛盾を集約した本質としての家であり、木曽の山間に17代の家系を編んだ藤村固有の家である。ここではじめて藤村は自己の運命と正しく対決した。・・・ひとたび運命の根源に〈家〉を見出した以上『春』の終章に予定された〈人生の春〉があえなくついえたのは、むしろ自明といわなければならない。仙台の春は家からの脱出によってもたらされたのであり、現実と遮断された世界での自由と解放にすぎなかった。宮城野への旅は家出のヴァリエーションでしかない。・・・現実が現実という茫漠とした対象にとどまるかぎりひとは観念によってそれを処理することもできるだろう。しかし、ひとたび〈家〉という具体的な牢固な「もの」を見てしまった以上もはや観念的な消去は不可能になる。家出による生の安定は無意味なのである。 こうして、「捨てる」ことから「耐える」ことへ運命の克服は転回せざるをえない。・・・藤村にとって真に書かれねばならぬのは捨てることで可能な人生の春ではない。家の桎梏に耐えて生きる人間の記録であり、かれの自由を重たくひしぐ家の実態であった。危機の根源をえがくことなしに、おそらく書くことによる自由は実現しない。」(三好行雄『島崎藤村論』)
日本の家族は、1955年から1973年までの約20年間の高度経済成長を通じて根本的な変質と変貌をとげたといわれるが、戦前の家族は構造的には前近代の武士家族をモデルとする旧民法の統制のもとで、家督相続性を前提とする直系家族・世代家族という形態をとり、イエの永続を重視するものであった。したがってそれは家父長の支配と家族員の服従という権力構造、性別と家族内地位別の分業という役割構造、そしてイエへの全人格的、情緒的な一体化をしいる情緒構造をもっていた。明治期の青年にとって自立していくうえで〈家〉の問題は大きく重くのしかかっていただろう。観念の世界ではなく現実の社会のなかで生活しつつ〈人生の春〉に到達することは不可能に近いことだったのではないだろうか。
では今を生きる人間にとって、自立していくうえで〈家〉の問題は対決する対象、克服すべき対象ではなくなっただろうか?老舗や名家のように「永続を重視するイエ」が今も存在するが、大部分の都市の住人にとってはそのように重くのしかかる存在ではなくなっただろう。しかし、忘れてはいけないのは、そのことは自立が以前よりも容易になったことを意味するわけではないということだ。これは人間形成の在り方に関わる。確かに、かつての〈家〉や〈地域〉のような共同体(社会的諸関係)は、自立を阻害する強力な桎梏だった。しかし、そのような否定的な存在だけだったわけではない。そもそも共同体がないところに人間形成はありえないのだ。共同体なくして生き方の社会的蓄積としての文化はなく、文化なくして文化の主体的内面化としての教養はなく、教養なくして自己形成なし、なのだ。自己形成とは自己の解体と再編成の永続的な営みであり、自己とは「社会的諸関係の総体」。解体にあたっても再編成にあたっても教養、文化、それをもたらす共同体=社会的諸関係(友人関係、恋愛関係、夫婦関係、仕事関係など)は不可欠。だから、自立の過程で社会的諸関係を熱望したり、幻滅して逃避したり、破壊したりを繰り返すのだ。現在も自由の獲得、自立の実現は決して容易なものではない。求め続けるものは、悩み続けるしかない。(どうもまだ頭が整理できていない。)
( 1937年 島崎藤村夫妻 国際ペンクラブ大会から帰国)
(晩年の島崎藤村夫妻)
(島崎藤村「夜明け前」)
明治維新前後の時代の変転を背景に,木曾馬籠(まごめ)の本陣・庄屋・問屋を兼ねる平田派国学者の青山半蔵(作者の父正樹がモデル)の生涯を描く。
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