ナポレオンをめぐる女たち⑥ ジョゼフィーヌ2
ナポレオンはジョゼフィーヌに求婚し、二人は結婚する。しかし、ジョゼフィーヌはナポレオンを愛していたわけではない。ナポレオンは美男子でもないし、体格をがいいわけでもない。風采のあがらない、ただの痩せた小男。彼女好みの愛人は、逞しくてがっしりした、経験豊富な優雅な男。またジョゼフィーヌにはひどい浪費癖があった。「高利貸しのように貪欲なくせに、あっという間に金を使い果たし、フランス十州の収入をもってしても追いつかないほどの気違いじみた浪費」(サド侯爵)を好む女性だった。だから、ヴァンデミエールの反乱鎮圧まで、屋根裏部屋に住んで、一膳めし屋で日に一度食事をするだけの生活を送っていた「財産と言えば外套と剣だけ」のようなナポレオンとの結婚にはたいして魅力を感じない。しかし自分の生活もそろそろ安定させたかった。32歳で二人の子どもを抱え、借金だらけの生活。闇取引に首を突っ込んで小遣い稼ぎをし、有力政治家(バラス)の愛人となってなんとか暮らしを立てているような有様。ジョゼフィーヌはナポレオンとの結婚を同意した理由いついて、友人への手紙でこう語っている。
「『彼を愛しているの』とあなたはおたずねになるでしょう。いいえ、愛してはおりません。『それでは、嫌いなのですか』—――いいえ、嫌いではありません。私はぬるま湯のような状態にあり、こうした状態は私も好きではありません。・・・・彼がエネルギッシュに語る力強い情熱は気に入っていますし、彼の口ぶりからすると誠実さを疑うことはできません。この力強い情熱こそが、私が結婚に同意した理由なのです。」
1796年3月、区役所で立会人二人(ナポレオンの上司であり、ジョゼフィーヌの愛人だったバラスと彼の新しい愛人でありジョゼフィーヌの友人であるタリアン)だけの結婚式を挙げる。ナポレオンは有頂天だったが、イタリア方面軍最高司令官に任命されていたため、なんと式の二日後にはイタリアの戦場に旅立たなければならなかった。イタリアの戦場で指揮を取ることはナポレオンのかねてからの念願だったが、愛しの妻から引き離されることはつらくてたまらない。どんなに激しい戦闘があった日でも、ジョゼフィーヌに手紙を書かない日はなかった。日に4通書いた日もあった。
「僕は、君を愛さずしては、一日たりとも過ごしたことはない。君を抱きしめずしては、一夜たりとも過ごしたことはない。僕の人生の魂である君から僕を遠ざける栄光と野心を呪わずしては、一杯の紅茶たりとも飲んだことはない。仕事の最中、部隊の先頭にたって野営地を馬で駆け回っているときでも、僕の素晴らしいジョゼフィーヌだけが心の中にあり、精神を占め、考えを吸収してしまう。・・・」
「あなたから離れていると、心は踊らない。離れていると、どこに行っても世界は闇だ。一人ぼっちの私は、甘い気持ちをあじわうこともない。あなたが私から奪ったものは心だけではない。あなたは頭から生涯離れないただ一つのものなのだ。苦労続きの戦いでいやになったとき、敗けるのではないかと不安になった時、将兵たちから不愉快な気分をあじわわされたとき、人生を呪いたくなったとき、私は胸に手をやる。あなたの肖像画が息づいている。私は見る。するとたちまち、愛は私にとって絶対のものとなり、愛するあなたがいないという思いをのぞいて、すべてが愉快なものになってくる。・・・」
新妻のことをこんなに気にしながらも、ナポレオンは仕事の方もバリバリこなす。軍服もろくにそろわず、まるで乞食集団のような有様で意気のあがらなかったイタリア方面軍は、ナポレオンの指揮のもと兵力、装備ではるかにうわまわるオーストリア軍相手に連戦連勝を重ねた。恋の炎が士気を高め、勝利の高揚がさらに恋の炎をかき立てた。では一人パリに遺されたジョゼフィーヌはどのような日々を送っていただろうか?
(フランソワ・ジェラール「マルメゾンの皇后ジョゼフィーヌ」)
(ジョルジュ・ルジェ「ボーアルネ子爵」)
ジョゼフィーヌの前夫。フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑される。
(ポール・バラス)
総裁政府のリーダー格。その腐敗ぶりから「悪徳の士」と呼ばれた。ジョゼフィーヌの愛人だった。
(1805年頃 イギリスのジェームズ・ギルレイによるカリカチュア)
1797年冬、バラスの前でヌードショーを繰り広げるタリアン夫人とジョゼフィーヌ、それを覗き込むナポレオン
(グロ「アルコレ橋のナポレオン」)
ナポレオン率いるフランス軍が、オーストリア軍を破った1796年11月15 - 17日「アルコレの戦い」(ヴェローナに程近いアルコレ沼沢地周辺)
0コメント