ナポレオンをめぐる女たち③ 母レティツィア3
1804年、国民投票で圧倒的な支持を受け、皇帝の座に就いたナポレオンも、1812年のモスクワ遠征に失敗。1813年、プロイセン・オーストリア・ロシアの連合軍にライプチヒの戦いにも敗れ、エルバ島に流される。ナポレオンは世継ぎ欲しさから最高の「あげまん」だったジョゼフィーヌを捨て、オーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚した。確かに彼女は期待通り息子「ローマ王」(ナポレオン2世)を生んでくれた。しかし、ナポレオン失脚がわかると息子とともにウィーンに戻ってしまう。エルバ島から、いくら使者を出し、便りを送っても返事はない。それもそのはず。老獪なメッテルニヒ(オーストリア宰相)の差し金で近侍を命じられたプレイボーイのナイペルク伯の罠に落ち、愛人関係になっていたからだ。
一方、ナポレオンのことを心から心配していたジョゼフィーヌは、ナポレオンに対する心証を少しでもよくしようとロシア皇帝アレクサンドル2世を自宅のマルメゾンに招きもてなした。しかし、5月半ばの季節外れの肌寒い日、薄着のままアレクサンドルと遠出したジョゼフィーヌは風邪をひき、こじらせて肺炎になり、5月29日息をひきとる。
エルバ島へ島流しになったナポレオンのところへ最初に駆けつけた女性は、母親のレティツィアだった。それまで彼女は8人の子どもに対し、「そのとき一番困っている子に愛情を注ぐ」という接し方をしてきた。その点では、手のかからないどころか、一家の面倒を見、皇帝にまでなったナポレオンにはことさら愛情を注ぐ必要はなかった。だからナポレオンのエルバ島配流は、これまで愛することの薄かった次男に対し、彼女が初めて役に立ってやれるチャンが訪れたことになる。
その頃ナポレオンは金に困りはじめていた。フォンテーヌブロー条約によって、ルイ18世(復権したブルボン家の新国王)から年200万フランの歳費が送られることになっていたが実行されない。それだけでなくルイ18世は、オルレアンにナポレオンが残してきた1千万フランも差し押さえてしまう。レティツィアは、ナポレオンのもとへ駆けつけるにあたり、ナポレオンから買い与えられていたポン城やパリ市内の豪邸を処分して金に換え、ダイヤモンドなどの宝石類とともに持ってきた。そして、それらをそっくりナポレオンに差し出した。もちろんナポレオンの喜びは大きかったが、レティツィアの喜びもそれ以上だった。ようやく次男ナポレオンに母親らしく尽くすことができたから。コルシカ島で長年暮らしていた彼女にとって、すぐ隣のエルバ島は気候も風土もなじみやすく、言葉の不自由もない。何より、テロや戦闘の危険にさらされているわが子のことで不安になる必要もない。 「みんながこのわたしを世界一幸福な母親だと言いましたが、私の人生は、不安と苦しみの連続でした。郵便がつくたびに、わたしはいつも、戦場での皇帝の死が告げられているのではないかと恐れました」(死の2年前に侍女ローザ・メリーニに漏らした言葉)
彼女にしてみれば、これまでにない心穏やかな日々が始まったわけだ。しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。
(フォンテーヌブローの訣別) この後、エルバ島へ向かう
(フランソワ・ジェラール「マリー・ルイーズとナポレオン2世」)
(プリュードン「ローマ王」)
(エルバ島の位置) コルシカ島とイタリア半島の中間
(オラース・ヴェルネ「エルバ島のナポレオン」)
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