蕎麦の話⑥江戸っ子と蕎麦2 蕎麦と粋(いき)
元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助率いる元赤穂藩の浪士四七名が、江戸本所松坂町の吉良上野介の屋敷を襲って、主君浅野内匠頭の仇を討つ。討ち入りの前夜、義士たちはひそかに江戸市中のそば屋に集まり、そばを食べたという巷説は広く知られ(「討ち入り蕎麦」ただし、事実ではないというのが定説)、多くの川柳が作られた。
「そばの客将棋の駒で数をとり」
「そばの客」は赤穂浪士を指す。また当時の駒は46枚(「中将棋」=「本将棋」【駒数は敵味方合わせて40枚】と異なって、各陣がそれぞれ46枚の駒を用いて勝負する)で自分を入れれば47。四十七士の数だ。
「打(うつ)の縁切(きる)のゑんにて義士はそば」
(「蕎麦を打つ」→「敵を討つ」、「蕎麦を切る」→「敵を斬る」)
真偽のほどはともかく、江戸の人々が赤穂浪士と蕎麦を結びつけたのは、「討つ(打つ)と斬る(切る)との縁起もさることながら、心の底で、義士たちの生死の諦観を讃え義士たちとの別れを惜しんだ、江戸の人びとの粋心(いきごころ)」(笠井俊彌『蕎麦 江戸の食文化』)だったにちがいない。
ところで、九鬼周造は『いきの構造』のなかで、「いき」の三要素として、「媚態」、「意気地」とともに「諦め」をあげている。そして、「諦め」は思い切ることだから、蕎麦の切れやすい性質(小麦粉と違って粘着力の強いグルテンがないので、蕎麦粉100%の「生粉【きこ】打ち」=本来の「生蕎麦【きそば】」は切れやすい)はその諦めを連想させる。だから、別れの心境(別れを悲しみ惜しみながらも、その状況を「左様【さよう】なら」と諦観する)を蕎麦はさりげなく代弁してくれる。
「蕎麦切のわかれも悲し杜宇(ほととぎす)」
江戸時代、蕎麦は安価で手軽なカロリー補給食として人々の活力源だったが、江戸っ子が蕎麦を愛好したのは、それだけが理由ではない。粋な食べ物だったからだ。まずはその細さ。「ご常法」(蕎麦職人の基準。「中打ち」)は「切りべら二十三本」。畳んだそば生地一寸(3.03cm) を23本に切る。従って一本の切り巾は約1.3mmとなる。(生地の厚みを約1.5mmに延ばしたとすると断面は多少縦長ぎみの長方形になる)。この細さが、見た目にも粋であるだけでなく、喉に落としこむ粋な食べ方も可能にする。奥ゆかしく消えやすい微香も粋。落ち着いた艶のある薄茶色も渋く粋だ。そして、やや渇き加減になろうとしている細い蕎麦が喉を通るとき、ただツルリとしたうどんとは違って、わずかに喉をこそぐ。その微妙な喉越しを江戸っ子は粋と感じて好んだ。
こんな蕎麦だから食べ方も野暮ったくては駄目だ。まず、肩でぱっと暖簾を割ってとびこむ。そして割り箸を前歯でパチンと二つに開いて、スルスルっとかっ込む。と見る間に、銭をそこへ放り出し、さっと店を出る。
「つむじが巻て上る笊蕎麦」
( 国芳「「仮名手本忠臣蔵 十一段目」)討ち入り
(月岡芳年「四十七士最後の軍議」)
(作者不詳「四十七士そばや出発の図」)
(北斎「東海道五十三次 見附」)部分
(十返舎一九 著 歌川国貞 画『湯尾峠孫杓子」二八そば屋の店先)
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