「フランス革命の光と闇」④バスチーユ陥落とルイ16世

 ルイ16世がバスチーユの陥落を知らされたのは7月14日の深夜。有名なやり取り(おそらく作り話)。 

     (国王)「それは暴動か?」  (侍従)「いいえ陛下、革命でございます」

 この時ルイは、バスチーユ要塞司令官ローネイやパリ市長フレッセルの虐殺の顛末、猛り狂った群集の残虐な行い、さらには兵士たちの戦線離脱について知らされ、ひどく動揺する。彼はどうしたか?15日早朝、臨時の国務諮問会議を招集。王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)は、直ちにパリに進軍すべし、と軍隊によるパリ鎮圧を主張(前日、アルトワ伯、王妃マリー・アントワネットら強硬派は、宮殿内の「オランジェリー」に出向いて、そこに駐屯している軽騎兵部隊を激励していた)。しかし、王はこの提案を退ける。王が考えていたことはただひとつ、民衆と兵士の血がこれ以上流れるのを避けることだった。 国王は、護衛もなく、二人の王弟(プロヴァンス伯【のちのルイ18世】、アルトワ伯)だけをともなって、国民議会に赴く。そして、パリ近辺に陣取った部隊に退却を命じたことを伝える。代議員たちに向かって王はこう語りかけた。

「よいかな、余は、国民と一つになりたいと切に願っているのだ。余は、そのほうらを信頼しておるのだ。こうした状況にあって、国家の救済を実現すべく、余を助けていただきたい。余は、そのことを、『国民議会』に期待しておるのだ。国民全体の救済のために集まった、民衆の代表たるそのほうらの熱意こそが、国家救済の唯一の確かな保証なのだ。わが臣民の忠誠を信じて、余は、軍隊に、パリおよびヴェルサイユから撤退するよう命令を出した。」

 国王の新たな方針を民衆に知らせて首都の平安を取り戻すため、国民議会は大代表団をパリにすぐさま派遣した。 翌16日も王は国務諮問会議を開く。王妃マリー・アントワネットは、アルトワ伯とともに、一家の身の安全を図るために宮廷をオーストリアとの国境に近いメス(ここは強力な要塞を備えている)に移すよう懇願。しかし、そのような移動は逃亡と受け止められるので国王一家にとっては危険であると主張した陸軍大臣ブロイ元帥の主張にしたがって、王は宮廷をヴェルサイユから動かさないことを決める。そして、弾圧で事を解決しようとするアルトワ伯とポリニャック一族(王妃マリー・アントワネットの寵愛を受けたポリニャック夫人とその一族)の一連の動きを好ましくないと思ったルイ16世は、フランスを離れるよう彼らに命じた。

 さらに7月17日、王はネッケルの再任を発表。7月14日の民衆蜂起は財務長官として国民に絶大な人気のあったネッケルの罷免がきっかけだったが、民衆は彼が呼び戻されることを切望していた。王はそれに応えたのだ。それだけではない。この日、王はパリへ向かう。国民と和解し、国内の融和を図りたいとの意図に動かされて。この時点での国王のパリ訪問は、どれほど危険を伴うものだったか。夫の決意を知ったマリー・アントワネットは、眼に涙を浮かべて、翻意するように懇願した。パリの煮えたぎる大鍋の中に身を投ずるとは、死にに行くようなもの、狂信者に殺されるか、流れ弾にあたって殺される、どんなに運がよくても人質に取られる危険がある、と。ルイ自身も、身の危険は十分承知していた。しかしそのこと以上に、パリ訪問は政治的に絶対必要なことで、逃れることはできないと感じていた。そして、民衆の抗議運動の象徴、市庁舎へと向かった。 

(アントワーヌ=フランソワ・カレ「ルイ16世 1788年」ヴェルサイユ宮殿 ) 部分

(ヴィジェ=ルブラン「マリー・アントワネット 1788年」ヴェルサイユ宮殿)

(アンリ=ピエール・ダンルー「アルトワ伯」ヴェルサイユ宮殿)

(フランソワ=ユベール・ドルーエ「プロヴァンス伯」ヴェルサイユ宮殿)

(7月14日 国王にパリの情勢を伝えるラ・ロシュフコー公)

(7月17日 ルーヴル河岸を市庁舎へ向かう国王の行列)

(7月17日 パリに到着した国王に、迎えたバイイが入市式の儀礼にのっとり「都市の鍵」を渡す)

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