「太陽王ルイ14世」⑫ナントの勅令廃止

 ルネサンス以降のヨーロッパ史を見ていて感じるのは、優れた政治家、統治者かどうかを分ける基準のひとつがその宗教政策にあるということ。エリザベス1世、カトリーヌ・ド・メディシス、リシュリューなど冷徹なリアリストたちは、自らの信仰にとらわれることなく国家利益の観点から宗教政策を展開した。その点で、ルイ14世が、1685年10月18日に発布した「フォンテーヌブロー勅令」(「ナントの勅令」を廃止)は彼が犯した最大の愚挙と言っていい。1620年代末にラ・ロシェルや南フランスで反乱が鎮圧されたのちは、すっかりおとなしくなっていたプロテスタントを再び迫害したのである。「フロンドの乱」でも叛徒の群れに加わらず、今や人口の5パーセント(100万人)以下にまで減少している無害な少数派を、である。

「フォンテーヌブロー勅令」の内容は、実に苛酷である。プロテスタントの信仰の自由を否認し、牧師を国外に追放。プロテスタントの学校を閉鎖し、教会堂を取り壊す。プロテスタントの亡命は許さず 彼らの子孫にカトリックの洗礼を強制する等々。こうした状況下、捕らえられればガレー船送りと財産没収を覚悟のうえで、およそ20万人のプロテスタントがフランスから脱出する。

 ところで、ユグノーの強制改宗は「ドラゴナード」と呼ばれる。「ドラゴン(竜騎兵)」と呼ばれる特殊な兵士が先兵役になったためだ。「ドラゴン」は本来、火を吐く武器、すなわちマスケット銃を持つ軽騎兵の意味。それが17世紀になると、租税を取り立てるために武器を携帯したまま滞納者の家に入り込み、納税が終わるまで居座り続ける強制執行部隊の異名となる。さらに、このドラゴン部隊が目的を変え、ユグノーの強制改宗のために用いられるようになったのだ。

 ルイ14世の絶対王政を支えた中心人物は財務長官コルベール。輸出を奨励して国内産業を保護する重商主義政策を推進し、ルイ14世時代の繁栄をもたらした。具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成した。そしてこの中心的担い手だったのがユグノー(プロテスタント)。重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたコルベールは、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。しかし、そのコルベールが1683年9月6 日亡くなる。フランスの経済発展には平和が不可欠と考えていたコルベールは戦争にも消極的で、晩年には国王の寵は好戦的で保守的なルーヴォワに移っていった。

 ナントの勅令の廃止に、フランスのほとんどのカトリックはルイ14世に拍手喝采。それから20年以上も戦争を続けることになるフランス国民の一体感、連帯感を生み出した。しかし、マイナスの影響の方がはるかに大きかった。フランス経済の中枢を担っていたといってもいいフォンテーヌブロー勅令をだしたことは、フランス経済の衰退をもたらした。ウォーラーステインも、ナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらした、と指摘している(『近代世界システム 1600-1750』)。他方、ユグノーが多かったフランスの時計師たちの多くがスイスへ移住したことで、スイス時計産業が発展する契機となる。また、ブランデンブルク選帝侯国(後のプロイセン王国)へは2万人が移住(そのうち1万5千人がベルリンに定住。18世紀初頭にはベルリンの人口のうち3分の1はフランス人だったと言われる。あの啓蒙専制君主フリードリヒ2世を幼いころ教育したのもまたユグノーのラクール婦人だった。)し、農業と工業の両面で技術革新をもたらした。どのような宗教政策をとったかで、国家の明暗は大きく分かれたのである。

 ところで現在、ドイツにおいて難民問題を中心的に担っている内務大臣はトーマス・ド・メジエール。まるでドイツ人らしくない名前だが、彼も移住ユグノーの末裔である。

(ドラゴンによる強制改宗)

 (プロイセンへ移住した宗教難民)

(1685年プロシアへのユグノーの到着)

(「フランスドーム」Französischer Dom  ジャンダルメンマルクト広場)

1701~05年にかけて、フランスから逃れてきたユグノー教徒のために建設された教会堂。18世紀後半、フリードリヒ大王によって教会の隣に建てられ華やかな塔と2つを総称してフランスドームと呼ばれる。

(リゴー「1701年 ルイ14世」プラド美術館)

(ドイツ内務大臣トーマス・ド・メジエール)

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