「太陽王ルイ14世」⑪「ルイ・ル・グラン(偉大なる王ルイ)」
「ルイ・ル・グラン(偉大なる王ルイ)」と称せられるルイ14世の統治は72年(1643年5月14日~1715年9月1日)の長きにわたった。オランダ戦争(1672年~78年)の勝利によって、フランスの威力が全ヨーロッパに及ぶようになり、ルイ14世の黄金時代到来と思われた。パリに五つある凱旋門の内、二つがオランダ戦争での戦勝記念碑として建てられた。「サン・ドニ凱旋門」はラインでのフランス戦勝を記念して1672年に建造。また「サン・マルタン凱旋門」はフランシュ・コンテ地方を傘下に収めた戦勝を記念して1674年に建造。さらにヴェルサイユ宮殿の顔ともいうべき「鏡の間」も1678年~84年に建造された。
しかし、オランダ戦争ののちも、フランドルやライン左岸への進出を企てるフランスに対して、諸国が警戒心を抱くのは当然。1688年、オランダ、スペイン、神聖ローマ皇帝、スウェーデン、ドイツ諸侯は対仏防衛のアウグスブルク同盟を結成。ルイ14世は、この対仏同盟に対しても宣戦布告し「アウグスブルク同盟戦争」(1688年~97年)を開始する。18世紀に入っても王は戦争を止めない。「スペイン継承戦争」(1701年~14年)。戦争は、たんに領土を拡張するためだけのものではなく、自らの権威を内外に示すための重要な手段。オランダ戦争までは、ルイ14世は戦争を通じて偉大な君主のイメージを作り上げるのに成功したと言えよう。しかし、強大化したフランスは次第に孤立した戦いを強いられるようになる。他の国々より多くの人口を抱え擁し(17世紀後半、イギリス500~600万、スペイン600~800万、オーストリア・ハプスブルク家の全領土内800万に対して、フランスは2000万)何とか持ちこたえていたが、その国力も限界に近付きつつあった。
ところで、アウグスブルク同盟戦争はあまり知られていないが、その後の世界史の流れを理解する上で極めて重要な戦争である。1688年、イギリスで大事件が起きる。「名誉革命」だ。国王ジェームズ2世の執るカトリック主義と親フランス政策が、国内貿易商人や地主たちの反感をかったことが原因。オランダのオラニエ公が、イギリスの王座にウィリアム3世として迎えられ、ジェームズ2世はフランスに追放された。この革命はルイ14世にとって大きな打撃。ジェームズはルイの支持者であり、オラニエ公はルイの敵対者だったからだ。だからイギリスのこの変革は、英仏関係を全く逆転させた。そして、この年に始まったアウグスブルク同盟戦争は、フランスとイギリスにとって、世界支配をめぐる第二次百年戦争(1689年~1815年)の始まりでもあったのだ。歴史は、ヨーロッパの覇権をイギリスとフランスが争う時代に入った。そして、両国はこの戦争以降、アメリカ大陸やインドなどの植民地においても戦争を繰り広げるのである。
(ミューレン「ライン川渡河作戦でのルイ14世」) 部分
(サン・ドニ凱旋門)パリ
(サン・マルタン凱旋門)パリ
(ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」)
(ヴェルサイユ宮殿庭園側ファサード 1675年頃)テラスがある
(ヴェルサイユ宮殿庭園側ファサード) 現在
気候に合わないテラスをつぶして、「鏡の間」が作られた
(ピエール・ミニャール「アウグスブルク同盟戦争の頃のルイ14世」ヴェルサイユ宮殿)
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