「太陽王ルイ14世」⑨ヴェルサイユ宮殿3
1682年以降、宮廷はヴェルサイユ宮に固定されることになった。地方総督のポストを持つ大貴族たちも、任地には代理人を置き、当人はヴェルサイユ宮に住む。「南の翼棟」が王侯たちの、また「北の翼棟」が宮廷貴族の住居棟となった。こうなると、王権に不満を抱いても任地(地方)でのネットワークを利用しての挙兵は不可能になる。また、ヴェルサイユ宮では、国王を真似た華美な生活を送ることになるから、たえず金欠病に悩み、大貴族同士は、国王の寵を求めて服従を競い合うことになる。こうしてヴェルサイユ宮は大貴族を飼いならす格好の場となっていった。
ヴェルサイユ宮が統治の手段として機能するのは、大貴族たちに対してばかりではない。国民に対してもだ。宮廷が、あるときはルーヴル、あるときはフォンテーヌブローなどと場所を変える移動式からヴェルサイユに固定されたことで、国王が国民に向かって姿を見せるのではなく、国民が国王に近寄ってくるように変わった。今ヴェルサイユ宮を目の当たりにすると、ここに一般の平民が本当に入ることができたのだろうかと疑問に思えるが、本当に誰でも入ることができたのだ。ただし、条件があった。二つの装身具を備えていること。剣と帽子である。それじゃあ平民には無理、と思えるがそうじゃない。門番に金を払えば簡単に借りられたのだ。そうしてヴェルサイユ宮に足を踏み入れた訪問者たちは、建物内部の豪華さ、調度品のぜいたくさ、庭園の広大さに目がくらむ。そして、そこに住む国王の偉大さに思わず平身低頭しないではいられなくなる。ルイ14世自身こう言っている。 「 国王の威厳が、全く見られないようにしている国もあるが、それは恐怖と圧政によってのみ統治 されている・・・・・わが君主制に特異な性質があるとすれば、それは臣下が君主に対して自由に容易に接することができる点である。」
では、ヴェルサイユにまで足を運べない地方に住む人々に対しては、どのような統治方法をとったのか。町の中央に造られた国王広場である。そこには馬上姿の凛々しいルイ14世像が建ち、ブリュゴーニュ地方のリヨンだろうと、南フランスのモンペリエだろうと、住民は国王と日常的に接することができた。
ところで、豪華、華麗なヴェルサイユ宮だが、そこにはトイレが無い、などと言われることがあるが真相はこうだ。「シェーズ・ダフェール」(chaises d’affairs)とは、「用便椅子」とか「おまる椅子」とか訳される穴あき椅子。今の介護用ポータブルトイレのようなものだが、自分のアパルトマンの部屋にこれが置かれていた(王や王妃には「椅子の間」と呼ばれる専用の部屋があった)。しかしそれ以外には存在しない。そのため、用を足したくなった場合は、大急ぎで自分のアパルトマンの部屋に戻るか、廊下の隅などでするしかなかったのだ。ルイ14世の弟オルレアン公の二度目の妻となったリーゼロッテ(ドイツのプファルツ選帝侯の娘)が叔母への手紙でこう証言している。
「この宮廷の汚さには相変わらずなじめません。つまり誰もが私たちの部屋の前のギャラリーの隅に『お』をするのです。部屋から出るときに、かならずといっていいほど誰かが『お』をしている姿を見かけます。コメディやオペラを禁止する代わりに、まずこちらの方を禁じた方がいいとのですが。」 (もちろん『お』とは『おしっこ』のこと)
ヴェルサイユ宮の王弟の部屋の前で日常的に行われる立小便とは、ちょっと想像しづらい光景。「シェーズ・ダフェール」にすわったまま(ということは、用を足しながら)臣下と面会したというルイ14世の姿とともに、現在の我々の感覚からは隔たり過ぎているが、それもまたヴェルサイユのひとつの姿だった。
(ヴェルサイユ宮殿)
(リゴー「ルイ14世」ルーヴル美術館)
(「王の寝室」ヴェルサイユ宮殿)ここにも、誰でも入ることができた
(ヴェルサイユ宮殿礼拝堂)唯一ここだけは、一般人は入れなかった
(「ルイ14世騎馬像」リヨン ベルクール広場)
(「ルイ14世騎馬像」モンペリエ ペイルー公園)
(「シェーズ・ダフェール」)
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