「太陽王ルイ14世」①誕生
スペインという国は、1492年に国内からイスラム勢力を追い出し、約800年にわたるレコンキスタを終わらせ統一国家となった。その歴史ゆえ、ヨーロッパでも随一のカトリック王国だった。それに対してフランスは、まわりをスペイン、イングランド、神聖ローマ帝国に囲まれ、バランス・オブ・パワーを基本的な方針に掲げる勢力とカトリック王国を貫こうとする勢力が対立を続けながら国が運営された。したがって、スペインとの関係も時に敵対したり、時に同盟を結んだりと、その時々の国内事情、国際情勢に基づいてめまぐるしく変化した。カトリーヌ・ド・メディシスは、イタリアを舞台にフランスとスペインが争ったイタリア戦争をカトー・カンブレジ条約で終わらせたが、その条約に基づき1559年王女エリザベートをスペイン国王フェリペ2世と結婚させた。その後、ユグノー戦争(1562年~1598年)では、カトリック陣営に味方し介入を強めるスペインとフランスは対立。しかし1610年にフランス王アンリ4世が暗殺され、幼いルイ13世が即位すると、摂政となった母后マリー・ド・メディシスはスペインとの融和を図る。1611年、スペイン王女アンヌ(10歳)とルイ13世の婚約が成立し、1615年結婚式を挙げる。
アンヌ・ドートリッシュには結婚後もなかなか子供が生まれない。政略結婚とは言え、彼女は17世紀有数の美女の一人。背はすらりと高く、髪は当時の女性美の手本と言われた金髪。手も美しく、緑を帯びた目の色は、眼差しが精彩を放っていて魅惑的だったと言われている女性。妊娠はする。結婚4年目、6年目、7年目。しかしいずれも流産。その後ルイ13世との関係も悪化し17年間不妊が続く。それが、結婚23年目(38歳)の1638年。待望の男児を出産。後のルイ14世の誕生である。ルイの洗礼名は「ルイ・デュードネ」(Louis-Dieudonné)。「神の賜物ルイ」という意味だ。それは、神への誓願によって生まれた子だから。1638年2月10日、なかなか子供ができないルイ13世は聖母マリアに誓願した。
「跡継ぎの息子が生まれたら、フランス王国を聖母に捧げ、ノートル・ダム大聖堂(パリ)に新しい 主祭壇と一群の彫刻を寄進します。」
ルイ14世は子の誓願の7カ月後に誕生した。この誓願を描いた有名なアングルの絵がモントーバン(アングルの故郷)のノートル・ダム大聖堂にある。アングルを新古典主義の代表たらしめた作品だ。ローマに滞在しイタリアで名を馳せたアングルがパリへと戻る前年の1824年に、モントーバンのノートル・ダム大聖堂の依頼によって制作された。ルイ13世が同家の守護聖人でもある聖母マリアと幼子イエスへ誓願する姿を主題に描かれた作品である。
ところでパリ・ノートルダム大聖堂の主祭壇を見ると、ピエタ像の両脇、向かって左手にルイ14世、右手に王冠を差し出すルイ13世の像が置かれている。ルイ13世の誓願通り寄進されたのだ(ただし、ルイ13世の死後)。
(パリ・ノートルダム大聖堂主祭壇)向かって右手に、マリアに王冠を捧げるルイ13世像
(ギョーム・クストゥー「王冠を捧げるルイ13世」パリ ノートル・ダム大聖堂)
(フィリップ・ド・シャンパーニュ「ルイ13世」プラド美術館)
(ルーベンス「アンヌ・ドートリッシュ」カリフォルニア ノートン・サイモン美術館)
(ドミニク・アングル「ルイ13世の誓願」モントーバン大聖堂)
ラファエロ「システィーナの聖母」を模して描かれた
(ラファエロ「システィーナの聖母」ドレスデン アルテ・マイスター絵画館)
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