「ルイ13世と宰相リシュリュー」
アンリ4世の暗殺によって国王に即位したのは8歳のルイ13世。摂政についたのは母マリー・ド・メディシス。生涯で56人の愛人を持ったとされるアンリ4世とマリーは不仲だった。政治観の違いもその一因(アンリ4世は反ハプスブルク、マリーはカトリック国同士が争うことを嫌い、親ローマ教皇、親スペイン)。そんな彼女は始終不機嫌で、長男のルイにも冷淡(言うことを聞かなければビシビシ鞭で打つよう養育係命じた)。愛情を注ぎ、心のよりどころにしたのは、イタリアからフランスへともにやってきたコンチーニ夫妻。マリーはこの二人に金、宝石、名誉、地位を惜しみなく与える。
ルイが13歳になった時、成人宣言。マリは摂政の称号を失うが、実権は握ったまま。2年たっても、3年たってもルイは国王としての実権を持たされない。マリはいつまでもルイを子ども扱いし、無能呼ばわり。ルイの不満は、母親の背後で事実上の宰相として振る舞うコンチーニとその妻レオノーラに向かう。コンチーニを逮捕、殺害し、レオノーラは魔女として告発し死刑に処した。さらに積年の恨みを晴らすべく母マリーをブロワ城へ追放。
ようやくルイは国王として実権を握る。しかし、マリーも簡単には引き下がらない。こうして「母子戦争」が始まる。そのなかで頭角を現したのがリシュリューである。王太后マリーの腹心として、枢機卿(1622年)、国務会議メンバー(1624年4月)、国務会議の長(同年8月)と異例の大出世をとげたが、外交政策をめぐる意見の不一致(彼にとっての最優先課題はハプスブルク家の勢力伸張の阻止)から国王とともにマリーを軟禁。彼女は脱出し、各地を転々とし再びフランスに戻ることなくケルンで生涯を終える。
ルイ13世、リシュリュー、王太后の三頭政治から王太后が脱落し、二頭政治になったと言っても、主導権を握ったのはリシュリュー。彼の政治姿勢は次の言葉に要約されている。
「私の第一の目標は国王の尊厳。第二は国家の盛大である」
カトリーヌがそうだったように、カトリックかプロテスタントかは第一の優先事項ではない。あくまで政治が第一なのだ。例えば1627年~28年の「ラ・ロシェル包囲戦」。1627年、いまだ多数の軍隊を有し、反乱を起こしていたユグノーを支援すべくイングランド王チャールズ1世がフランスに宣戦布告。リシュリューは軍に対してユグノーの拠点ラ・ロシェルの包囲を命じ、自らが包囲軍の指揮を執った。ラ・ロシェルは1年以上持ちこたえたものの餓死者が後を絶たず、町の総人口が2万8千からわずか6千になったとき、ついに降伏。そして、町からすべての特権が剥奪されたが、降伏した住民全員が赦された。その後も断続的に続いたユグノー軍と闘いは1629年終結。「アレス和議」によって、「ナント勅令」(1598年)で与えられたプロテスタントに対する信仰の自由は認められたものの、政治的軍事的諸特権は廃止されてしまった。国王、国家に反抗しなければ信仰の自由は認めるのだ。
彼の政治姿勢がもっとも明瞭に表れたのは「三十年戦争」(1618年~1648年)への態度。この戦争は神聖ローマ帝国内での新旧両派諸侯間の宗教対立から始まったが、新教国デンマーク、スウェーデンが新教側援助を名目に参戦したことで国際戦争に拡大した(「最初の国際戦争」と呼ばれる)。この戦争で、リシュリューはローマ・カトリック教会から裏切者と非難されながらも新教国スウェーデンと同盟を結ぶ(1631年)。さらには、フランスはスペインに宣戦布告して三十年戦争に参戦した(1635年)。すべては、フランスの国家利益のためだ。そのために、神聖ローマ帝国を中央集権化させないこと、スペイン・ハプスブルク勢力を弱体化させることを目論んだのだ。彼もカトリーヌ・ド・メディシス同様、冷徹なリアリスト、マキャヴェリストだった。
リシュリューは政治家としては凡庸なルイ13世を支え、国王の権威の強化、フランスの発展に貢献し、1642年12月4日57歳で病没。その5カ月後の1643年5月14日、リシュリューのあとを追うかのようにルイ13世が結核で他界。享年41歳。いよいよルイ14世の時代が始まる。しかしこの時ルイ14世はまだわずか4歳だった。 波乱の時代が幕を開ける。
(フィリップ・ド・シャンパーニュ「リシュリューの三面像」ロンドン ナショナル・ギャラリー)
(フィリップ・ド・シャンパーニュ「リシュリュー枢機卿」ロンドン ナショナル・ギャラリー)部分
(ルーベンス「マリー・ド・メディシス」プラド美術館)
(ルーベンス「ルイ13世」ノートン・サイモン美術館)
(ユスタス・ファン・エグモン 「ルイ13世」フランス歴史博物館)
(アンリ・ポール・モット「ラ・ロシェル包囲戦を指揮するリシュリュー枢機卿」オービニー・ベーノン博物館 ラ・ロシェル)
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