「ローマの噴水とシクストゥス5世」

「羅馬(ロオマ)に往(ゆ)きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井(ふんせい)ある、大(おほい)なる広こうぢの名なり。貝殻よりは水湧き出でてその高さ数尺に及べり。」

これはアンデルセンの『即興詩人』(1902年)の冒頭の文章である。訳者は森鴎外。この『即興詩人』、明治、大正、昭和の三代にわたって、イタリアとローマの風物を最も強く日本人の心に印象付けたと言われる。ここに描かれているのはベルニーニ作「トリトーネの噴水」。ナヴォーナ広場の「四大河の泉」(ベルニーニ)、「トレヴィの泉」(サルヴィ。基本設計はベルニーニ)もいいが、その数5000以上ともいわれるローマの噴水の中で一番好きな噴水は?と聞かれたら「トリトーネの噴水」をあげたい。4頭のイルカに支えられた貝殻の上にトリトーネ(ギリシア神話に登場する海神。トリトン。 海神ポセイドンとアムピトリテの息子)がひざまづき、ほら貝を吹き鳴らす音を水の噴出で表現している。大きさ、シンプルさ、独創性、どれをとっても自分好みだ。教皇ウルバヌス8世の命によって1643年に造られたが、そのことはイルカと貝殻の間に置かれたバルベリーニ家の紋章《三匹の蜂》であらわされている。サン・ピエトロ大聖堂の「バルダッキーノ」もウルバヌス8世の命でベルニーニが制作したが、そのあちこちに蜜蜂が刻まれている。

 ところで、ローマの噴水の多さはもちろん水の豊富さが背景にある。そしてそれは、古代ローマ帝国時代に整備された水道がもとにはなっているが、そのまま今に至っているわけではない。476年西ローマ帝国は滅び、その後ローマは衰退の一途をたどった。特に、537年ローマを包囲した東ゴート軍は、城壁内への給水を立つため古代ローマ時代の水道を破壊してしまった。以後、約900年間ローマの丘の上への給水は断たれ、人々は生活水を求めてテヴェレ河流域の低地帯へ移住せざるを得なくなった。この乾ききったローマの7つの丘に新たに古代の水道を再生復興しようと目論んだのが、教皇シクストゥス5世である。1585年4月24日に教皇に就任したかれの在位期間はわずか5年4カ月と3日。その間に、フェリーチェ道路網の整備、巡礼路の整備のためのオベリスクの発掘・移転・建立、フェリーチェ水道の建設、二つの古代記念柱と広場の整備、サン・ピエトロ大聖堂クーポラの完成など次々に大事業を成し遂げていった。現在のローマの街の基本形はシクストゥス5世によって形作られたと言ってよい。これだけの事業をやり遂げるには、卓越した構想力とともに剛腕ともいえる強力な実行力が必要だった。この教皇、どんな人物だったか。非常な合理主義者だったようだ。詩人ジュゼッペ・ジョアキーノ・ベッリ(1791-1863)がこんな詩『教皇シクストゥス』を残している。

     「 神さまの代理人の座にまで登った、数ある  

      者たち全部の中でも、およそ見たことがない 

      怒鳴りまくる教皇は、手の早い教皇は、

      とんでもない教皇は、シクストゥスに並ぶ教皇は。


       身近にいる者ならば誰に対しても

      手を下すことなど言うにおよばず、

      たとえキリストさまが相手でも容赦はしない、

      そしてあからさまに叩き割って見せた。

      ・・・・・                   」

 後段部分は次の事実をさしている。あるとき、木彫のキリスト十字架像が血を滴らせるという噂が広まった。シクストゥス5世は彫像の内部に仕掛けられた秘密を見抜くや、斧を振り上げて、立ちどころに「叩き割ってみせた」という。このような人物であって初めてローマ大改造を成しえたと言える。そして、そのように改造されたローマをバロック都市に装飾したのがジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598―1680)だ。

(教皇シクストゥス5世)

(ベルニーニ「トリトーネの噴水」バルベリーニ広場)

(ベルニーニ「四大河の泉」ナヴォーナ広場)

(「トレヴィの泉」)

(「バルダッキーノ」のバルベリーニ家の紋章《三匹の蜂》)

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