「ヴァチカン美術館の感動と疲労感」

 何年ぶりだろう、ヴァチカン美術館を訪れるのは。以前にはなかったネット予約システムを利用したので並ばずには入れたが、1番早い9時の予約(到着したのは8時40分)にもかかわらずものすごい人で、ゆっくり鑑賞できたのは最初の15分だけ。それも目玉のほとんどない古代彫刻の並ぶ「新回廊」(ブラッチョ・ヌオーヴォ)だけ。今回最も楽しみにしていたピオ・クレメンティーノ美術館も、一番見たかった「ラオコーン」のまわりは絶え間なく人だかり。ミケランジェロを虜にしただけの魅力は十分伝わってくる(トロヤ戦争でトロヤに味方したアポロン神殿の神官ラオコーンは「トロヤの木馬」の策略に気づいたが、戦いの女神アテナの不興を買い、2匹の蛇に息子ともども絞殺される場面を表わしている)。「ベルヴェデーレのアポロン」も「クニドスのヴィーナス」もよかったが、期待以上だったのは「ベルヴェデーレのトルソ」(「トルソ」=〈胴体〉という意のイタリア語から出た彫刻用語で、首・四肢のない、胴体だけの彫像)。なんだろう、この強烈なインパクトは。圧倒的な存在感。頭もなければ、両腕もない。両足も太ももだけ。こんな不完全な姿の彫刻がなぜここまで魅力的なのか。この彫刻。ローマのカンポ・デ・フィオーリ付近で発見されたのは、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせたユリウス2世の時代。ユリウスはミケランジェロに欠けた部分の修復を命じたが、ミケランジェロは「いや、このままが美しい!」と言って断ったそうだ。「彫刻の傑作とは、完成した作品を崖から転がし、あちこち欠けて、それでも美しいものが傑作だ」という言葉を残しているミケランジェロらしい。彼はシスティーナ礼拝堂の裸体画を描く際にもこの彫刻から着想を得たという。

 ヴァチカンを訪れる訪問者のほとんどが主目的にしているシスティーナ礼拝堂に向かう。ここのミケランジェロの「天井画」「最後の審判」はもちろん素晴らしいが、今回は側壁の「イエスの生涯」と「モーセの生涯」が描かれた連作を見るのが主目的。端にある椅子に座ってじっくり眺めるが、ものすごい人の数。一人一人は小声でしゃべっているのだろうけど、うるさい。係員が何度も「silence」、「silenzo」,「シーッ」。じっくり作品と向き合い、あれこれ自由に思いを巡らすような鑑賞はとても不可能。感動以上に疲労感が残った。

サン・ピエトロ大聖堂は以前とはずいぶん様子が変わっていた。入るのだけでもものすごい行列なうえ(美術館に入館した場合はそうでもないが)、見学場所がかなり制限されていた。以前3年続けてローマを訪れたときは、バチカン近くのアパートを借りていた(2回は同じアパート、1階は別のアパート)ので、コーラ・ディ・リエンツォ通りの店に買い物に行くついでに1週間の滞在中毎日のように大聖堂に気軽に立ち寄っていたが。今回は、ミケランジェロ「ピエタ」も見ることができなかった。それでも、ベルニーニの「聖ロンギヌス」や「バルダッキーノ」(内陣の青銅製大天蓋)、「アレクサンデル7世の墓碑」は何度も見ているが、今回もその独創性に驚嘆させられた。

 ローマの夏の日中は暑い。最低は20度を切るから、午前中は動けるが35度を超える日中は部屋でおとなしくしているに限る。昼食をとり、本を読み、昼寝をして夕方5時に出かける。歩いて、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会、サン・タゴスティーノ教会、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会をまわる。どこも落ち着いた雰囲気で、カラヴァッジョやラファエロ、ミケランジェロの作品と向き合える。団体は全くいない。午前中との比較で、自分に合った鑑賞スタイルを実感した。日本でほとんど展覧会に足を運ばない理由もわかった気がした。おそらく、その作品自体への関心以上に、作品と向き合った時に生じる、感情、思考を静かに楽しみたい気持ちが強いのだろう。

(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会 コンタレッリ礼拝堂)

左:カラヴァッジョ「マタイの召命」、中:同「マタイと天使」、右:同「マタイの殉教」

(「クニドスのヴィーナス」ヴァチカン美術館)

(「ラオコーン」ヴァチカン美術館)

(「ベルヴェデーレのトルソ」ヴァチカン美術館)

(ベルニーニ「聖ロンギヌス」サン・ピエトロ大聖堂)

(中央がベルニーニ「バルダッキーノ」サン・ピエトロ大聖堂)

(ベルニーニ「アレクサンデル7世の墓碑」サン・ピエトロ大聖堂)

(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会)オベリスクをのせた象はベルニーニの作品

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