「異質な他者との共存」
旅の重要性が、目的地にではなく過程にあることは多くの名言が語っている。
「人が旅をする目的は、到着ではない。旅をすることそのものが旅なのだ」(ドイツの劇作家ゲーテ)
「旅とはどこかに辿り着くことが重要なのではない」(イギリスの詩人T・S・エリオット)
「旅の過程にこそ価値がある」(Apple創業者スティーブ・ジョブス)
そして、旅を通して物事を新しい目で眺められるようになることが大切だ、ということも。
「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」(フランスの作家マルセル・ブルースト)
「目的地というのは決して場所ではなく、物事を新たな視点で見る方法である」(アメリカの小説家ヘンリー・ミラー)
さらに言えば、新しい目で眺められるようになる一番大事なものは自分自身。自分が望むものは何か、自分がやりたいことは何か、自分が何より大切なものは何か、そういった事が旅の中で見えてくるようになること。しかし、どんな旅でもそれができるようになるわけじゃない。異質な他者との遭遇、交流が必要だろう。 いや、それだけでもダメか。異質な他者と出会った時、誰もが自分を批判的に検討しなおすわけじゃない。自己の絶対化を増幅させ、他者を抹殺することもある。 コロンブス後に、スペイン人たちが新大陸で行った残虐行為は、そのあまりのおぞましさゆえ身内の中からすら告発者を生んだ。代表はラス・カサス。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(バルトロメ・デ・ラス・カサス著、染田秀藤訳、岩波文庫)は、身の毛もよだつような事例に溢れている。
「キリスト教徒はインディオの身体を一刀両断にしたり、一太刀で首を斬りおとしたり、内臓を破裂させたりしてその腕を競い合い、それを賭け事にして楽しんだ。母親から乳飲み子を奪い取り、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたキリスト教徒たちもいた。また、大笑いしながらふざけて、乳飲み子を仰向けに川へ投げ落とし、乳飲み子が川に落ちると「畜生、まだ、ばたばたしてやがる」と叫んだ者たちもいれば、嬰児を母親諸共剣で突き刺したキリスト教徒たちもいた。」
「ある日、ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出かけた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹を空かしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた。犬がそれを食いつくすと、さらに彼はその小さな胴体を投げ与えた。」
「足がようやく地面につくくらいの高さの大きな絞首台を組み立て、こともあろうに、我らが救世主と12名の使徒を称え崇める為だと言って、インディオを13人ずつ一組にして、絞首台に吊り下げ、足元に薪を置き、それに火を付け、彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいた。」
中部メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から17世紀初めには75万人に。ペルーの先住民人口は、コロンブス以前の900万人から1570年には130万人に。この激減をもたらした最大の原因は虐殺ではなく、スペイン人が持ち込んだ疫病(天然痘、はしか、インフルエンザなど)だったと考えるが、そのことによって虐殺行為が免罪されるわけではない。自己への誇りを失わず、かつ絶対化することなく異質な他者と共存していくことはどれほど困難な道か。
(ロレンツォ・デッレアニ「本国に送還されるコロンブス」ジェノヴァ ネルヴィ美術館 )
第3回航海時。砂金収集のために現地人の労働力を求めようとするスペイン人入植者たちと、それに制限を加えようとするコロンブスおよびその弟バルトロメーの対立は決定的となる。コロンブスは失政を非難され失脚し、鎖をつけられ本国に送還された。
(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でスペイン人の残虐行為を告発したバルトロメ・デ・ラス・カサス)
(フェリックス・パラ「伝道師バルトロメ・デ・ラス・カサス」メキシコ国立美術館)
(スペイン人の残虐行為①(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』挿絵)
(スペイン人の残虐行為②(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』挿絵)
(スペイン人の残虐行為③(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』挿絵)
(ヨーロッパからもたらされた疫病に感染するインディオたち)
0コメント