「フランスの守護聖女ジャンヌ・ダルク」⑤
戴冠式を見届けたジャンヌの次の目標は首都パリの奪回。しかし、国王はブルゴーニュ公と手を結ぶことばかり考えている。ジャンヌは国王に無断でパリ攻撃に出発。1429年9月8日、サン・トノレ門(現在のパレ・ロワイヤル辺り。記念のレリーフがある。ピラミッド広場の「黄金色のジャンヌ騎馬像」もこの記念)を攻撃するが負傷。翌日、国王は撤退を命令。ジャンヌの抗議にも国王は耳を貸さない。1430年4月、ブルゴーニュ公は国王の期待を裏切って王国領に侵略開始。包囲されたコンピエーニュに救援に駆けつけたジャンヌは、味方から裏切られ5月23日捕虜となってしまう。国王シャルルがジャンヌ救出を試みた形跡はない。12月、幾度も苦杯をなめさせられたジャンヌへの復讐に燃えるイギリスは1万リーブルの身代金を支払って、ジャンヌの身柄をブルゴーニュ公から受け取る。12月23日にルーアンに移送され、イギリスより裁判権を任されたボーヴェー司教ピエール・コーションによって、報復的意味合いを隠すため異端者裁判にかけられた。そうすることでジャンヌの活躍によって戴冠したシャルル7世の権威を損ねるのが目的である。
そして1431年5月29日ジャンヌに火刑判決が下され、翌日火刑に処せられた。火刑に立ち会った廷吏のジャン・マシューはこの時のジャンヌの様子をこう記している。
「あまりに敬虔だった彼女は、十字架をほしがった。その言葉を聞いて、その場に居合わせたイギリス人が木の棒で小さな十字架を作り、彼女に差し出した。彼女はうやうやしくそれを受け取って口づけし、彼女の肌と衣服の間に入れた。さらに彼女は私に、死ぬ直前まで見ていたいので、教会の十字架をもってきてくれるよう控えめに頼んだ。サン・ソヴール小教区の聖職者が、十字架を持ってきた。彼女は息絶えながら、大声で『イエスさま!』と最後の言葉を叫んだ」
それから18年後の1449年11月10日、フランス北西部のノルマンディー地方を奪回した国王シャルル7世がルーアンに入城。ジャンヌ処刑裁判の真相と、裁判過程の詳細を知るため調査を命じる。そしてジャンヌの復権裁判への道が開かれ、1456年1月28日、ジャンヌの少女時代を知る人々への尋問が開始。あらゆる階層にわたる延べ110余名の証言が検討され審理された結果、7月7日ルーアン大司教館で異端判決は破棄。フランスの主要都市にジャンヌの名誉回復が公示された。そして、その後フランスは、国家的な危機に直面した時、ジャンヌの激しくも美しかった生涯を何度も思い出し、いつか神の助けがあることを信じ続けたのである。
(リオネル・ロワイエ「火刑台のジャンヌ」ボア・シュニュ大聖堂 ドンレミ)
(ジャンヌのサン・トノレ門攻撃の記念プレート アンドレ・マルロー広場)
(コーションの前で火刑に処せられるジャンヌ マルシアル・ドーヴェルニュ「国王シャルル7世を悼む祈り」から抜粋された細密画)
(イシドール・パルトワ「火刑台に導かれたジャンヌ」ルーアン美術館)
(ジュール・ルネプヴ「火刑台のジャンヌ」パリ パンテオン)
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