「フランスの守護聖女ジャンヌ・ダルク」②

 フランスの作家、政治家であったアンドレ・マルロー。第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となったが脱走。そしてレジスタンス運動に身を投じた。1945年8月自由フランス軍のシャルル・ド・ゴール将軍に出会って意気投合。9月自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり活躍し、その功績でレジスタンス勲章を授与された。彼は1960年から69年、フランスの文化大臣をつとめたが、在任中の1964年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられたルーアンの地でフランス政府を代表して追悼講演行った。その中にこんな一節がある。

「 ああ、墓もなく肖像もないジャンヌよ。あなたは知っていた。英雄たちの墓は、生きている人間たちの心にあると。そして[現在のフランスにある]あなたの2万もの彫像などに、たいした意味はないと。そのあらゆる面をフランスが愛せるように、あなたは自分の姿をあきらかにしなかった。」

 確かに、フランスではどこへ行ってもジャンヌ・ダルク像を目にする。パリでも、主だった教会には必ずジャンヌ・ダルク像が置かれている。街中には四体。サン・オーギュスタン広場、サン・マルセル大通り、ビル・アケム橋、ピラミッド広場。特に、ピラミッド広場の黄金のジャンヌ・ダルク像は有名だ。2002年のフランス大統領選。世界中が驚天動地の大騒ぎとなった。現職のシラク大統領と右派政党国民戦線のル・ペンの決選投票になったからだ。現在の国民戦線党首マリーヌ・ル・ペンの父親だ。彼の尊敬する人物は、ジャンヌ・ダルク。選挙中のデモ行進も、シャトレ広場を出発し、リヴォリ通りを通りピラミッド広場のジャンヌ・ダルク像の前で小休止。ジャンヌに最敬礼し、その後オペラ座広場で演説、というスケジュールだった。アンドレ・マルローにとっては、ジャンヌは抵抗と解放の象徴だったが、ル・ペンにとっては愛国の象徴なのだろう。19世紀にジャンヌは列聖されたが、その前数年間に起きた状況に関して、マルローは先ほどの講演の中でこんなことを言っていた。「ジャンヌ・ダルクは祖国フランスの象徴でありながら、今なお人びとの中に生きる普遍的存在になったのである。プロテスタントの信者にとって、彼女はフランスの歴史の中でナポレオンと並んでもっとも有名な人物となった。一方、カトリックの信者にとって、彼女はもっとも有名なフランスの聖女となったのである。」

 右も左も、プロテスタントもカトリックも賞賛するジャンヌ・ダルク。1429年2月にシノンの王太子シャルルと会い、1430年5月に捕虜となるまで、彼女が歴史の表舞台で活躍したのはわずか1年3カ月。これだけなのだ。その間に、オルレアンを解放し、王太子シャルルをランスで戴冠させた。その彼女に、なぜフランス人がいまだにひきつけられ続けるのか。それだけの人物は日本には見当たらない。坂本龍馬の銅像も全国で40体ほど。二宮金次郎も1000体程度。フランスのジャンヌ像とは桁が違う。しばらく、ジャンヌの魅力、不思議を追ってみたい。

(ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「神の声を聞くジャンヌ」)

(アンドレ・マルロー)

(「ジャンヌ・ダルク像」 サン・オーギュスタン広場)

(「ジャンヌ・ダルク像」 サン・マルセル大通り)

  この坂を上がったところに「ジャンヌ・ダルク教会」がある

(「ジャンヌ・ダルク像」ビル・アケム橋 )

(「ジャンヌ・ダルク像」 ピラミッド広場)

(国民戦線党首マリーヌ・ル・ペン)

(国民戦線創設者、初代党首ジャン=マリー・ル・ペン)

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