「聖書の神と人間」
日本で生活しているとピンとこないが、世界的に見れば信仰を持たない人間は圧倒的に少数派。対象は異なっても大多数の人間は、神との関係の中で日々の生活を送っている。信仰を持つ人間にとって神は、どのような存在であり、どのような関係を結んでいるのだろうか。その関係性が、その人間の思考、行動をどのように規定しているのだろうか。
旧約聖書において最も重要な人物とされるモーセ。そのモーセが、神の山ホレブで神から「召命」を受ける場面。有名な「燃える柴」の場面だ。ここに、聖書の神と人間の関係が明瞭に表現されていると思う。
「 主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・へ彼らを導き上る。 見よ、イスラエルの人々の声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』」 (出エジプト記3章7~10節)
そして躊躇して行動を起こせずにいるモーセを神は励ます。
「わたしは必ずあなたとともにいる」(出エジプト記3章12節)
さらに、名を問うモーセにこう答える。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3章14節)
その意味は「お前がどこにいても、そこに私はいる」の意味のようだ。さらに時代がずっと下ってダビデ王の時代。かれが神殿をたてようとしたとき、神はそれを断りこう述べる。
「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、
すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできた」
(サムエル記下7章6節)
聖書の神は立派な神殿に鎮座して人からの奉仕を求める神などではない。民とともに歩み、人に仕えることを優先させる神だ。常に民とともにいて、彼らの苦しみや悩みを見て、聞いて、知っており、時宜にかなった応答をする神なのだ。こんな人生の同伴者を持った人間は強い。何があろうとともに歩み、決して見捨てることなく関わり続ける同伴者ほど生きる勇気をもたらしてくれるものはないのだから。
(アーノルド・フライバーグ 「モーセと燃える柴」)
モーセに語りかける神
(エドワード・ポインター「エジプトのイスラエル人」)
重労働で虐待されるイスラエル人たち
(ミケランジェロ 「モーセ」ローマ サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)
(映画「十戒」 監督:セシル・B・デミル 主演:チャールトン・ヘストン)
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