「孤高のリーダー ハンニバル」
イタリアでは今でも子供が悪い事をすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがあるという。ハンニバルが未だに恐怖の代名詞となっているのだ。ハンニバルは、イタリアにとって、なぜそれほどまでの恐怖の対象になったのか。
第二次ポエニ戦役(紀元前218~202)は、古代屈指の名将ハンニバルがイタリア半島に侵入したことによって始まる。ローマの防衛網の盲点を突いた「アルプス越え」という前代未聞の戦術に始まり、ハンニバルはローマ軍団を手玉に取った。アルプス越えの時点でのハンニバル軍は2万6千人。対するローマの動員能力は75万。ハンニバルの軍団は死地に赴いたも同然。しかし、ローマ軍は何度闘っても勝てない。現在も、世界中の陸軍士官学校で講義の題材になっている「カンネの戦い」では、アレクサンダー大王が発明し、ハンニバルが受け継いだ、奇兵の持つ機動力を最大限に生かす戦法で、ローマ軍を包囲殲滅させた。死者の数は、ハンニバル軍5000に対してローマ軍は7万に達したと言われる。
一体ハンニバルとはどのようなリーダーだったのか。部下と馴れ親しんだりすることはなかったようだが、部下たちは彼のことを慕ってやまなかった。16年にわたる敵地での 不自由な生活の中でも逃げ出す者はいなかった。しかも、彼らはアフリカ、スペイン、ガリアの傭兵たち。この孤高のリーダーの何がそうさせたのか。古代ローマの歴史家リウィウスは、「ローマ建国史」の中でハンニバルを次のように描いている。
「寒さも暑さも、彼は無言で絶えた。兵士のものと変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。眠りも同様だった。彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片付けることが、つねに優先した。その彼には、夜や昼の区別さえもなかった。眠りも休息も、やわらかい寝床と静寂を意味はしなかった。
兵士たちにとっては、樹木が影をつくる地面にじかに、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは、見慣れた風景になっていた。兵士たちは、そのそばを通るときは、武器の音だけはさせないように注意した」
優れたリーダーには、人を率いる統率力だけでなく、人に慕われる才能も不可欠のようだ。部下の兵に親しく語りかけるわけでも、励ますわけでもなかったハンニバルを部下たちが敬愛し続けたからこそ、彼らはローマの持久戦略にも耐え続けることができたのだ。 それに引き換え今の日本のリーダーの何と魅力に乏しいことか。退き際をわきまえないのも無能なリーダーの共通点だが。
(アルプスを越えるハンニバル軍)
(「ハンニバル」チュニジア バルド国立博物館)
(ハンニバルのルート)
(セバスティアン・スロッツ「ハンニバル」ルーヴル美術館)
(フランソワ・ジラルドン「ハンニバル」パリ テュイルリー公園)
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