「さくらを愛でる」④

 上野、向島(墨堤)、飛鳥山。江戸の桜の名所の様子は浮世絵に数多く描かれているが、もしトリップできるのなら行ってみたい名所ナンバーワンは御殿山。桜は水辺が似合うけど、ここは海とセット。海の先には房総半島から三浦半島までも一望できる、絶景の眺望を誇った。それをよく伝えるのは、広重「東都名所 御殿山花見」。こんな場所で花見をすれば、まさに日常を忘れ、解放感を満喫できたことだろう。

 この御殿山、今ではすっかり様変わりしてしまったが、幕末日本の歴史と深いかかわりを持つ。広重「名所江戸百景 品川御殿やま」をみると、土を削り取られ大きく姿を変えた御殿山が描かれている。なぜそのような工事が行われたのか。その答えは、広重「江戸名所四十八景 御殿山満花」の中にある。「お台場(品川砲台)」だ。1853年ペリーが来航し、沿岸防備のためにお台場が建設されたが、そのために必要な大量の土を確保するため御殿山が犠牲になったのだ。

 1858年、朝廷の勅許を得ないまま幕府が日米修好通商条約を結んだことから攘夷運動が激化し、攘夷派によるテロが頻発した。当時、英国公使館が置かれていた高輪東禅寺を水戸浪士14人が襲撃した「第一次東禅寺事件」(1861年)や薩摩藩島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が刺殺された「生麦事件」(1862年)が有名だが、そのようなテロに対してイギリス、アメリカ、フランスが幕府に要求したのが御殿山の公使館建設。当然、江戸っ子たちは猛反発。東海道の品川という交通の要衝であり、花見をはじめ江戸っ子たちの憩いの場だったからだ。しかし幕府は建設を強行。1862年12月にはイギリス公使館がほぼ完成。しかし、焼き討ちにあう。やったのは長州藩士13人。隊長は高杉晋作。火付け役には志道聞多(井上馨。初代外務大臣))や伊藤俊輔(伊藤博文。初代内閣総理大臣)もいた。

 しかし、御殿山の景観を決定的に変えたのはその10年後に開通した東海道線。御殿山は完全に分断されてしまった。江戸の面影は全くなくなってしまった。江戸時代の御殿山に近い海とセットになった解放感あふれる桜の名所、どこかにあるのだろうか。行ってみたいものだ。

(広重「東都名所 御殿山花見」)

(歌川広重「名所江戸百景 品川御殿やま」)土を削り取られ大きく姿を変えた御殿山

(広重「江戸名所四十八景 御殿山満花」)「お台場(品川砲台)」 が描かれている

(清長 「都花十景 御殿山」 )

(品川台場の位置)  現存するのは第三台場と第六台場

(第三台場)「台場公園」

(かつての御殿山の位置)

(現在の御殿山)


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