「征長戦は無益」

 元治元(1864)年7月19日の禁門の変で朝敵の汚名を着せられた長州に対して、征討の勅許が与えられたのは7月23日。征長総督は前尾張藩主徳川慶勝。そして幕府側諸藩軍が長州国境に進軍したのが11月11日。11月18日には長州総攻撃の予定になっていた。しかし慶勝は11月12日の長州の三家老切腹、四参謀斬首を確認すると、11月14日、18日予定の総攻撃の延期を命令する。幕府、数藩が強硬処分を主張するなか、長州の幕府への恭順の条件を①「禁門の変」の首謀者三家老の切腹 ②山口城の破壊 ③長州在留の五卿の他藩への移送、にとどめた。そして、高杉が12月15日に功山寺で挙兵し、翌年1月6日に反乱軍と正規軍が衝突し、内乱が開始するというのに、慶勝は12月27日に討伐軍に撤兵命令をくだす。征長軍が引き上げたからこそ、高杉の武力クーデターは成功したのだ。ではなぜ、征長軍は高杉の動きを知りながら撤退したのか?それは征長参謀の指示に基づく。その参謀とは?西郷隆盛だ。西郷は、当初長州藩壊滅まで考えていた。9月7日の大久保利通宛書簡では「東国あたりにわずかな領地を与えて長州を国替えさせれば、今後薩摩に害を及ぼすことはないだろう」とまで書いている。それが10月24日には、慶勝に「征長戦は無益」と上申するまで変化。この変わりようはなぜか?実は、西郷は9月11日にある幕府重臣と会談。戦争を回避し、長州の力を温存するように考えを大転換させていた。その人物とは、勝海舟である。この時の勝に対する印象を西郷は9月16日の大久保利通宛書簡でこう語っている。

「勝氏に面会したが、実に驚くべき人物である。はじめ打ち負かすつもりだったが、こちらの頭が下がるような状態だった。どれだけ知略があるかわからない英雄肌の人物である。学問と見識では佐久間象山が抜群であるが、実行力、決断力ではとうてい勝に及ばない。勝という人物にひどく惚れた」 では勝は、会談でどのような話をしたのか?

「長州征伐など、幕府を利するだけだ。いまの幕府は朽ちかけた大木のようなもので、非常の国難を担当する力などない。雄藩が連合して国難に当たるべきだ。長州問題など、早く妥当な処分で兵を収めるべきだ」

 討伐軍に撤兵命令が出されたのが元治元年12月27日(1865年1月24日)。薩長同盟が結ばれるのは、翌慶応2年1月21日(1866年3 月7日)。わずか1年後。高杉、西郷、勝らによって歴史は急展開をとげてゆく。

(勝海舟)

(西郷隆盛)

(高杉の動きと征討軍の動き)

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