1867年 パリ万国博覧会と「ニッポン・ブーム」

 パリで爆発的な日本ブームが起きたきっかけは、1867年の第2回パリ万国博覧会。日本が、万博に公式出品したのもこの時が初めてだ。会場は、今エッフェル塔が立つシャン・ド・マルス。参加国数42ヵ国、入場者数は1000万人。日本の展示で奇妙だったのは、幕府と並んで薩摩藩も展示ブースを設けていたこと。ブースの表示は、幕府が″Gouvernement  de  Taikoun″(「大君【=将軍】の政府」)、薩摩藩は″Gouvernement  du Taischiou  de  Satsouma″(「薩摩太守の政府」)。このことが諸外国に、どのように映ったか?「Taikoun(大君)」の意味が諸外国に伝わらず、誤った認識が発生。「日本と言う国は、 Gouvernement(政府)が複数ある連邦国家だ」という認識を生んでしまったのだ。こうして幕府の権威はヨーロッパでも低下。この万博。終了したのは1867年11月3日。徳川幕府が政権を朝廷に返上した(大政奉還)のは、その6日後のことである。

 この時、日本の展示物で高い評価を得たのは、和紙(銅版画の用紙として珍重されていたが、改めてその品質の良さが認識された)、金銀蒔絵(鶴亀、松竹梅、富士、龍などの日本独特の図柄が話題になった)、武者人形(鎧をまとった等身大の武者人形に、「サムライ」ブームが巻き起こるった)、陶器(大量の注文・購入が行われた。特に薩摩焼は、飛ぶように売れ「SATSUMA」として世界的な薩摩焼のブームが起こった。)。マネ、モネ、ルノワールも生活を装飾する日本の美術工芸品を多くの作品の中に取り入れたるようになっていった。単なる異国趣味的な関心を超えて、日本美術の造形原理、構造様式、価値観をも取り込んで新しい表現を目指す「ジャポニスム」誕生まであと一歩だ。

(1872年 ルノワール 「団扇を持つ少女」)

団扇のほか、当時の流行の花でもあった日本の菊を思わせる花々が描かれて いる

(1868年 マネ 「エミール・ゾラの肖像」)

  力士の浮世絵や琳派風の花鳥の屏風 が描かれている

(1874年 マネ 「ニナ・ド・カリアスの肖像」)

背景の壁面一杯に散らされた団扇。日本にこのような習慣はないのだが。

(1867年 モネ 「ラ・ジャポネーズ」)

当時のヨーロッパの人々が感じた浮世絵に対する強い印象(「ハデハデ感」)の表現。ここでも壁一面に団扇。

(1867年 パリ万国博覧会会場)

(1889年 パリ万国博覧会会場)

1867年のパリ万博会場跡地に、エッフェル塔が建てられた


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