「海洋国家オランダのアジア進出と日本」9 『オランダ風説書』②

イングリッシュ・ブレックファストと言えば紅茶。イギリスに紅茶文化がひろまったのはポルトガルからジェームズ2世に嫁いだ(1662年)一人の王女による。その名は、キャサリン・オブ・ブラガンザ。彼女が、持参金がわりにイギリスにもたらしたのが、植民地ボンベイと大量の中国茶だった。宮廷内で茶会が催されるようになり、貴族、上流階級の間で飲茶の習慣が広がっていった。

 このキャサリン・オブ・ブラガンザとジェームズ2世の結婚、日本から遠く離れたヨーロッパで行われたこの結婚の情報を江戸幕府は「オランダ風説書」を通してつかんでいた。ただ知っていただけではない。この情報が幕府の政策に影響を及ぼしたのだ。「リターン号事件」である。イギリスは、1613年、平戸にイギリス商館を設置したが、家康の死(1616年)による外交方針の転換、貿易不振(オランダとの競争に敗北)もあって10年で閉鎖(1623年)。それから50年後の1673年、日本との通商再開を求めてイギリス東インド会社は長崎にリターン号を派遣してきたのだ。幕府は要求を拒否する。その理由はイギリス王家とポルトガル王家との姻戚関係だったが、幕府はこの姻戚関係をあらかじめオランダ人から1662年の「オランダ風説書」で伝えられていたのである。そこには、こう書かれていた。

「今イギリス王[チャールズ2世]はポルトガル王の妹[キャサリン・オブ・ブラガンザ]と結婚するところで、それにより彼には結婚の持参金としてゴアとマカオが贈られる。」

 ここには、オランダの巧みな情報操作が見られる。キャサリンの持参金は実際にはボンベイ(現ムンバイ)のみ。ゴアとマカオへはイギリス船の入港が認められたにすぎないし、実際2年後にマカオに入港したイギリス船は取引すら許されなかった。「オランダ風説書」はイギリスとポルトガル王室の結婚をいちはやく報じると同時に、ゴア(ポルトガルのアジア植民地統治の拠点)やマカオ(日本に近い)など日本に恐怖 を与える言葉をつらねて、巧みに情報操作をしていたのである。

 いよいよリターン号が長崎に入港してきたとき、幕府は、オランダの情報をもとに「イギリスの王とポルトガルの王女は結婚して何年になるか」と問い「われわれの王は結婚してから11年になる」と回答を得る。幕府は、イギリス人が長らく日本に来航していなかったことと、イギリス王室とポルトガル王室の婚姻関係を理由として、通称要求を正式に拒絶した。

 ところで、情報操作をしていたのはオランダ人だけではなかった。オランダ通詞も情報操作を行っていた。オランダ通詞は、オランダ人と日本人の交流のすべての場面に介在していたと言っても過言ではない。公式文書の翻訳や重要な情報の伝達、交渉の場での通訳は通詞仲間が独占していた。通詞は、オランダとの貿易が存続しなければ生計が成り立たなかった。また、通詞自身も、オランダ人がもって来る私貿易品の販売の斡旋をしたりして利益を得ており、ある種の商売を行っていた。だから、自分たちの生活を守るためにも、長崎でのオランダ貿易を存続させようと情報操作をすることがあったのである。江戸の幕府にすべてをそのまま伝えたのでは、幕府とオランダ人のあいだに軋轢が生じて大問題になるかもしれない。彼らは、オランダ人ではなく、自分たちを守るために情報を操作したのである。オランダ商館長日記や総督宛の書簡には、話したことの一部しか幕府に伝わらないことへの商館長の苛立ちや憤りが記されている。

 オランダがもたらした海外情報を扱う体制は、通詞の恣意、一般的に表現すれば長崎という都市の裁量権を可能にするものだったと言える。これは、幕府の強い権力と一見矛盾するようだが、実は江戸の幕府と長崎の町は相互依存の関係だった。幕府にとって、通詞が情報操作することは、織り込み済みだっただけでなく、自らの国内体制を保つために必要であることも多かった。行き過ぎがあれば罰すればよいだけの話である。このように「オランダ風説書」は、江戸の幕府と貿易都市長崎の、微妙な力関係の上に作成されたのである。

チャールズ2世とキャサリン・ブラガンザ

「キャサリン・オブ・ブラガンザ」ナショナル・ポートレート・ギャラリー

川原慶賀『蘭館絵巻』「宴会図」

川原慶賀『蘭館絵巻』「出港」



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