「海洋国家オランダのアジア進出と日本」8 『オランダ風説書』①

 日本人の海外渡航を禁じていた江戸幕府にとって、最新の世界情報を知るほぼ唯一の情報源だったのが「オランダ風説書」。長崎出島を舞台に、鎖国の200年間、このオランダによる世界情報の提供は毎年続けられた。このように、世界中の情報を200年以上にわたり定期的に報じ続けたメディアは「オランダ風説書」以外に見当たらず、これは世界史的に見て非常に独特で、類例のない制度のようである。

 もちろん、江戸幕府がオランダを通して入手したかったのは、世界情報一般ではない。鎖国政策の主たる標的についての詳細な情報だった。そして、17世紀においてその標的は、ポルトガルやスペインといったカトリック勢力による布教、貿易、領土の獲得を一体とした海外進出の動きだった。そのことは、幕府が1641年、オランダ人に情報提供を義務付けた最初の命令を言い渡したことからわかる。この二箇条からなる命令の内容はこうである。第一条は、オランダ船は今後長崎にしか入港してはならず、商売も長崎で行うべきこと、第二条は、もしオランダ船あるいは別の船にカトリック教徒が乗っているとわかったならば、オランダ船の日本渡航を禁止する、というものだった。

 なぜ1641年にこの命令が出されたのだろうか?まず、2年前のポルトガル人追放によって海外に関する情報源が減少していたからである。また、ポルトガル人の追放を徹底し宣教師の潜入を防止するために、策を講じなくてはならなくなっていたことも理由である。さらに、幕府は1640年にマカオから派遣された使節を処刑(61人斬首)したために、ポルトガル人側の報復攻撃が想定されたためでもある。1641年から幕府は全国に遠見番所を設置、真剣な警戒態勢に入る。情報提供の義務づけも、沿岸防備体制の強化と連動するものだろう。同時にこのころオランダ人もカトリックではないが同じキリスト教徒であることを、将軍が強く認識したことも理由の一つである。幕府はオランダ人にポルトガル人の情報を提供させて、ポルトガル人と同盟していない証拠としようとしたのである。

 ただし、当初、情報提供義務は、日本に対して直接何かが企てられた(例えば交易再開のための使節の派遣)場合のみを対象としていたが、1666年の「御法令」は報告の対象範囲を拡大した。その内容は、オランダが貿易している土地でのポルトガル人やスペイン人との通交を禁止する、もし彼らと出会ったならばその土地の名前を書面で報告せよというものである。書面による情報提供を意味する文言が現れたのも初めてのことだった。

 さらに1670年の江戸参府の際、商館長は江戸城で次のように申し渡されている。

「オランダ人は、ポルトガル人と並んで交易をしている土地でポルトガル人と交流をしてはならない、また彼らと同盟を結んではならない。もし将軍が他から先にそれを聞いたなら、オランダ人は厳罰に処せられる。ヨーロッパと東インド、及びオランダ人がポルトガル人とともに貿易を許されている場所でのあらゆる新しい知らせは、商館長が毎年包み隠さずに伝えなければならない。たとえばかばかしい笑うべき話が混ざっていたとしても。」

 あくまでもカトリック教徒やスペイン、ポルトガル両国の動静を知り、またオランダ人がカトリックと同盟していないことを確認することが目的であったとは言え、幕府は直接的には日本に関わらない一般的な時事情報までも求めるようになったのだ。そしてオランダも、風説書を武器としてヨーロッパ人の中での日本貿易独占を維持するために、可能な限り幕府の要請に応えた。そしてそれが可能だったのは、17世紀のオランダにおいて情報の流通が非常に活発だったことが関係している。オランダ共和国は都市の大商人層が支配権力を握っていたので、自由に情報が流通していた。印刷物だけでなく口頭の話や手描きの文書を通して情報が盛んにやりとりされた。17世紀になるとオランダ共和国はヨーロッパの情報流通の主要な発信地かつ消費地となったのだった。

川原慶賀『蘭館絵巻』「出島への荷揚」

川原慶賀『蘭館絵巻』「商品の入札」

川原慶賀『蘭館絵巻』「商品の計算」

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」マウリッツハイス美術館 1665年頃 阿蘭陀黄金時代の絵画のひとつ

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