「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」24 「鳥羽伏見の戦い」

 薩摩打倒を強く願いつつ、天皇の目前での戦争を避けようとした慶喜。出軍する兵士に「決して兵端を開くことの無いように」といった趣旨の下知(指図)をする一方で、京都の地以外では薩摩藩に対して容赦ない姿勢を示す。慶応4年(1868年)1月2日、幕府の軍艦2隻に兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃させたし(薩摩海軍は完敗し、逃げ去ったり自沈したりで、大坂湾には一隻もいなくなった)、翌3日夜には大坂の薩摩藩邸を襲撃させた。

 ところで、鳥羽伏見の戦いは、勝利した薩摩側が描いた史実が正当なものとされた。すなわち、①戦争は旧幕府側将兵からの発砲によって始まったこと、②慶喜の反状(朝廷への敵対行為)は、慶喜が自ら幕兵を引率し、そのうえ先に帰国を命じられていた会津・桑名両藩兵を先鋒として、京都に向けて進軍させたことで明白だとされた。これらは、いずれも歴史的事実と異なるが、慶喜には反論が許されなかった。

 そもそも、会津・桑名両藩兵を先鋒とする旧幕府軍の上洛は慶喜の新政府入りに備えてのもので、先に攻撃を仕掛けて戦闘を始めたのは薩摩側だった。旧幕府側が敗北した最大の要因も、慶喜や板倉らが、京都での戦争を避けようとするあまり、十分な戦闘準備を整えないで、先発部隊を出発させたことにあった(幕府軍の武器が新政府軍より劣っていたわけではない)。

 いずれにせよ、事態は一気に慶喜が最も恐れた「朝敵」扱いを受ける状況へと突き進んだ。1月4日、議定兼軍事総裁の仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王が征討大将軍に任命され、錦旗を押し立てて前線に出てくる。5日には錦旗が淀小橋まで進む。旧幕府軍は淀藩の裏切り(老中を勤めた稲葉正邦の居城でありながら、淀藩の国家老らは、緒戦の情報を得て城門を閉鎖し、旧幕府軍の入場を拒絶)によって、淀で体制を立て直すことができない。6日には淀川対岸の山崎を守る津藩藤堂家の大砲が幕府軍を撃つ。幕府側の大軍は敗走を続け、先頭は6日のうちに大坂城に達する。そしてこの日の夜、慶喜は、旧幕府側将兵らを大坂城に置き去りにして、老中の板倉や容保・定敬ら、ごく一部のものだけを従えて洋上の開陽丸に移り、江戸へ帰ってしまうのである。慶喜一行の大坂退去は、一気に勝敗の帰趨を決した。残された会津桑名両藩兵や幕臣らの士気はとみに衰え、歩むべき方向を見失った彼らは、その後、ちりじりばらばらの敗残兵となって江戸へ逃げる。慶喜が「敵前逃亡」した理由について、いまだ定説は確立していないが、戦闘継続によって夥しい人命が失われることや自身が朝敵となる事態を避けるためだったと思う。部下を見殺しにしたことは、許される行為ではなかったが。

慶喜一行は、11日品川にたどり着き、翌12日早朝に上陸して江戸城に入る。そして、食事もとらずに、退役者も含む幕臣からの意見聴取を続けた。城中では連日連夜激論が戦わされたが、意見をわれがちに言上した幕臣の多くは、軍艦を大坂に派遣して反撃に転じよとか、敵兵を箱根で阻止せよといった主戦論を提唱した。しかし、慶喜は、頑として、これらの意見に同調しなかった。こうしたなか、慶喜に再上洛を直訴して、それを斥けられた若年寄兼外国総奉行の堀直虎が、江戸城で自刃するという悲劇も発生。しかし、慶喜の気持ちが変わることはなく、17日以降、慶喜は、さまざまな媒体を通じて隠居の意思を表明し、併せて朝廷へ救解を乞うことになる。19日、フランス公使ロッシュが、江戸城で慶喜に対し再挙を進めたが、慶喜はこれを斥け、翌20日、今度は静寛院宮(和宮。先代将軍家茂未亡人)に対して同様の依頼を行う。

さらに帰府後の慶喜は、徳川家の職制(組織)を、幕府のそれではなく、一大名のそれにふさわしいものに改めた。つまり、譜代大名からなる老中職を廃止し、主として旗本クラスを総裁・副総裁に任命した。ここに職制の上でも幕府は消滅。その結果、板倉や小笠原長行は罷免され、新たに勝海舟(陸軍総裁に就任)や大久保一翁(会計総裁に就任)らが、徳川家の運営にあたることになった。旧幕府の後始末は、もっぱらこの2人が担当することになる。慶喜の役割は、彼らを任命したところで終わった。

月岡芳年『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』 船で大坂を脱出する慶喜

「徳川慶喜」 慶応3年3月

「徳川慶喜」 将軍時代 

「徳川慶喜」 馬上

0コメント

  • 1000 / 1000