「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」20 「将軍空位期」
条約勅許・兵庫開港問題でしばらく忘れられていたが、当時の幕府が直面していた最大の課題は、第二次長州征伐だった。そもそも、そのために将軍は大坂まで来ているのだし、再征勅許もすでに得てある。しかし、なおも広島での交渉を続け、朝廷の承認を得ての最後通告、期限までの回答がないことによって交渉断絶とみなす、などという手続きを経たため、本当に攻め込むのは、慶応2年(1866年)の6月だった。この1月に薩長同盟を結んだ薩摩は、はっきりと出兵を拒否し、同調する藩も多かった。
慶喜は、この第二次長州征伐にどのような姿勢を見せたか?彼は、この戦争に積極的だった。将軍と老中の方が長州に対して寛大で、慶喜ひとり苛酷な処分案に固執しているとの印象を与えた段階もあった。いよいよ征討軍を出発させるほかないとの報告を天皇にして了解を得たのも、慶喜である。しかし、出陣を命じ全軍を部署するのは、むろん将軍家茂の仕事であって、慶喜の分担事項ではない。指揮権は大坂にある。
だが、この戦争に幕府は勝てなかった。攻め込んで押し戻され、石見口や小倉口では、逆に長州領外に進出してきた。海戦も長州に分があった。そういう不利な戦況のうちに、慶応2年(1866年)7月20日、病重くなった将軍家茂が大坂城で死ぬ。享年21歳。喪はしばらく伏せられる。
後任が慶喜しかありえないことは明らかだった。しかし彼は、幕府内には猛烈な反慶喜勢力(上は老中から、下はごく底辺の幕臣、さらに大奥の女性など)が存在したことなどもあって、かたくなに将軍職への就任を拒否し続ける。ようやく7月27日になって、条件つきで徳川宗家の相続だけは了承する(このため、将軍が4ヵ月以上にわたって存在しない、いわゆる「将軍空位期」と称される異常な政治状況が到来)。慶喜が将軍職継承を望まなかったというわけではない。征長戦を陣頭指揮して幕府軍に勝利をもたらしたうえでの継承が、慶喜の立場と幕府それ自体とを一挙に救う方法と考えたようだ。もちろんそれは、危険な賭けでもあった。必ず勝つという保証はない。しかし慶喜は強気だった。出陣のため禁裏御守衛総督の辞表を提出し(8月8日に勅許となった)、また率いていく旗本軍を銃隊編成に改めるなど、あくまで行くかまえである。天皇も慶喜サイドの出兵要請に再びゴー・サインを出し、8月8日に参内した慶喜に対し、「速やかに追討の功を奏」するようにとの勅書を下した。旗本軍の士気も上がり、征長正面の芸州口をめざして8月12日に出発する手筈となる。
ところが、その前日の11日、裏正面の小倉口で幕府軍は内紛を起こしてすでに崩壊し、この方面の指揮官老中小笠原長行は軍艦で遁走したとの報せが、大坂および京都に届いた。これでは戦争にならない。慶喜は諦める。格好の悪い話だが、出かけて失敗するよりはまだマシだからと、朝廷にも詫びをいれて、出陣中止を承認させることにした。しかし、松平容保と在京会津家臣団は慶喜の決断に激怒。これ以降、容保は、事実上、京都守護職の職を放棄し、慶喜とはっきり距離を置くようになる。こうして、禁門の変後、京都を事実上支配してきた一会桑勢力による京都(朝廷)支配は、ここに終わりを告げたのである。
慶喜の方針転換は、朝廷の大混乱も引き起こした。それまで孝明天皇や二条関白らの前に押さえ込まれていた廷臣たちが朝廷上層部に反撃開始。8月30日、大原重徳ら22名の公卿が参内して、征長軍の解兵、列藩の招集、幽閉中の親王・公卿の斜面を要求(「列参奏上事件」)。それを受けて、9月4日、二条関白と中川宮が、それぞれ関白職と国事扶助職の辞表提出し自邸に引きこもってしまう。ここに朝廷と幕府双方ともトップが不在という異常事態が生まれた。
この間、慶喜は、幕府の置かれている危機的状況を直視して、西洋式軍制の導入や幕府官僚機構の改編を図るとともに、雄藩の実力者と話し合って、今後の方針を決定しようとする(時間稼ぎだろう)。また、孝明天皇は、一時慶喜への強い不満の意をもらしたものの、最終的には慶喜に依存する途を選ぶ。それが10月になって突如行われた大原ら列参公卿への処罰と、慶喜への強い将軍職就任要請となって現れる。11月27日、天皇は慶喜に将軍宣下を命じ、慶喜が受け入れ、12月5日、将軍宣下となる。
「長州再征軍進発図」(長府博物館)長州への進軍を開始した幕府軍
第二次征長戦争の長州軍と幕府軍
玉置金司・矢崎千代治「徳川慶喜」 将軍時代
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