「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」17 幕府の慶喜敵視
「禁門の変」は一日で決着がついた。そして、この戦闘の最中、長州藩士父子が京都に派遣した家老の国司信濃(くにししなの)に授けた軍令状が発見されたことによって、長州藩は「朝敵」となる。すなわち、彼らが初めから軍事力によって目的を達成する計画であったことが明らかとなった。ここに、長州藩を「朝敵」として追討することが決定される。7月26日、江戸の長州藩邸はことごとく没収・破却された。翌8月22日、藩主父子の官位と賜字が剥奪されて慶親(よしちか)は敬親(たかちか)、定広は広封(ひろあつ)と改名した。ちなみに、文久3年(1863)、高杉晋作、伊藤博文らが吉田松陰の遺体を会葬した長州藩抱え屋敷も破却されたが、明治になって木戸孝允らが修復。あらためて朝廷からこの地を賜り明治15年に墓の東方に社を建て「松陰神社」(世田谷区若林)となった。
禁門の変(7月19日)直後の7月23日、朝廷から慶喜(幕府)に対し、長州藩追討のため将軍が江戸を進発することが要請される。これを受けて、薩摩・肥後などの有力外様藩のみならず、一会桑三者や紀伊徳川家などからも、将軍の進発が求められるにいたる。朝廷と幕府が協調関係にあることを広く世間に示すためでもあったが、これには長州藩への報復の動き(実際に実行されるのは8月5日~7日)を見せる欧米諸国の動向も絡んでいた。長州処分が、欧米諸国の長州攻撃の後になったのでは、幕府は外国の力を借りて同胞である長州を討つかたちになってしまい、国内各層の反発が抑えられなくなると判断されたからだ。
しかし、京都から発せられた将軍進発要請に対して、江戸の幕府首脳は拒否する姿勢をとり続ける。それどころか、この機会に横浜鎖港路線を撤回しようとする。また併せて驚くべき復古政策、諸藩敵視政策を採用。幕命で参勤交代制の復旧、大名妻子の江戸居住を命じたし、将軍の進発を求めて江戸にやって来た諸藩の周旋方のほぼ全員に面会を許さなかった。実は、この敵視政策の最大のターゲットは慶喜だった。まず8月5日、慶喜の護衛として在京していた水戸藩士の国元への帰還を命じる幕命が下る(代わりに、幕府から200余名の人員の貸与が通知。露骨な嫌がらせ!)。また12月と翌元治2年(1865年)の二度にわたって、慶喜の江戸連れ戻しを目的とした老中の率兵上洛も行われた。もちろんそこには、将軍の上洛を拒否し、併せて開国への国是転換を図ることや文久期以来、次第に定着しつつあった「朝主幕従」の政治秩序を、従前どおりの「幕主朝従」のそれに引き戻すことといった目的も有していたが。
それにしても、禁門の変後の幕閣による慶喜への一方的攻撃は驚くばかりだ。その様子を。司馬遼太郎は『最後の将軍』の中で次のように巧みに描いている。
「京での慶喜の戦勝と一時にあがった声望は、かえって江戸における幕閣の評判をさらに悪化させていた。慶喜はこの武名と声望につけ入り、朝廷を擁し、その指揮下の西国諸藩を率いて将軍を討滅するのではないかという憶測は京に入る者の感覚でこそあまり現実感はなかったが、江戸では事実になっていた。・・・かれら(閣老たち)は家茂の人柄のよさを、家臣としての情義以上の気持ちで愛し、家茂を愛すれば愛するほど、慶喜を憎んだ。将軍家を殆(あや)うくする者は長にあらず薩にあらず、慶喜である、という見方は、柳営の茶坊主のあいだでさえ常識として行われていた。些少なことでも慶喜の意見具申は、その底意を読まれた。」
江戸の幕閣サイドと慶喜サイドの対立状況を見て動いたのが薩摩。11月下旬、慶喜と親しい間柄になりつつあった小松帯刀を通して、江戸の幕閣との事実上の決別を迫る提言を行う。しかし慶喜はこの提案には乗らなかった。彼は、江戸の幕閣との対立を極力鎮めようとする一方で、京都での自分を支える基盤をより一層固めようとした。長州追討に将軍進発を命じられても代行者(征長総督)の進発でことを済まそうとした幕閣によって征長総督に任命された前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)が就任を固辞すると、京都では慶喜を推す声も上がったが、慶喜は頑なに就任を拒んだ。
松陰神社(世田谷区若林)
松陰神社(世田谷区若林)
毛利敬親・広封父子
徳川慶勝
前尾張藩主として第一次征長軍の総督に任じられた。「一会桑」の松平容保(会津)、松平定敬(桑名)の兄
高須四兄弟(1878年9月撮影) 左から定敬、容保、茂栄、慶勝
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