「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」14 「参預会議」解体

 再上洛した慶喜は、すぐに主役としての役割をはたしはじめる。文久3年12月30日、慶喜は松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂とともに、朝廷から「参預」に命じられる(藩主になったことがないので無位無官だった島津久光も従四位下左近衛少将に叙任され、文久4年1月13日に参預に任命)。この「参預」は朝議参預で、天皇から相談があったことを「参預会議」が評議決定する。だから、幕府の機関ではない。島津久光が、朝廷・幕府・諸藩間の意思疎通の場を設ける必要を建議し、これが朝廷によって聞き入れられて設置されたものである。

 参預が至急解決を求められた大問題は二つあった。「長州処分」(長州藩および京都を脱出した三条実美ら七卿の処分をどうするか)という問題と「横浜鎖港」の実施の問題。前者についてはすぐに一応の方針が打ち出されたが、横浜鎖港問題は激しい対立を招くこととなった。春嶽・久光・宗城は、もともと開国派だから横浜鎖港に反対。慶喜・容保・容堂もその非現実性はもちろん承知しているが、この際あまり長州藩を刺激するのは避けよう、また薩摩藩のヘゲモニーによる開国論を牽制しておこうという判断から、戦術的に鎖港方針を主張してまとまりがつかない。

 1月21日、将軍家茂が再度上洛して参内する。天皇は家茂を右大臣に叙し、政権委任の宸翰(勅諭)をくだしたが、その中に次のような衝撃的な文言があった。

「それ醜夷征服は国家の大典、遂に膺懲(ようちょう。征伐してこらしめること。)の師を興さずんばあるべからず。然りと雖(いえ)ども、無謀の征夷は実に朕が好む所に非ず。しかる所以の策略を議して以て朕に奏せよ」(『孝明天皇記』)

 つまり、まず武備を充実し、しかるのちに攘夷におよべという、これまで天皇が発していた勅諚とは大いに異なる宸翰が将軍に下ったのである。また、この宸翰には、家茂に対し、久光ら参預諸侯と協力して政治を行うことを求めた。すなわち、従来の徳川譜代大名による幕府政治を暗に否定する内容が記されていた。

そして、この宸翰の原案が、実は薩摩藩から提出された密奏をもとにしている(宸翰は、それをほぼそのまま採用)ことが露見。慶喜は、事態をこのまま放っておけば、薩摩藩が天皇(朝廷)を独占することにもなりかねないと、久光への警戒を強めていくことになる。そして、半ば強引に、参預会議の解散へともっていく。参預会議発足当初、久光擁護の立場(開国論)を表明していた慶喜は、幕府の主張する横浜鎖港論に切り替え、参預の対立を激化させる。2月25日、嫌気がさした山内容堂は投げ出して辞任帰国。3月9日には慶喜をはじめ春嶽・宗城・久光・容保が辞表を提出する。こうして参預会議は、発足してわずか二カ月余りで空中分解してしまった。

 このように、慶喜は自身が導火線となって参預会議を吹き飛ばすことになったが、それはどのような結果をもたらしたか?確かにこのできごとは慶喜を文字通り幕末史上最大のキー・パーソンに押し上げることになる。しかし同時に、長期的に見れば彼を破滅に追い込む要因ともなった。島津久光をはじめ、大久保利通や西郷隆盛など薩摩藩関係者の強い不信感を招くことになったからだ。大久保や西郷らは、この後、慶喜に対して生理的嫌悪感と言ってもよいほどの拒絶反応を抱くようになり、慶喜が彼らと妥協しようとして、客観的に見れば、理にかなったと思える提案をしても、それに応じない態度を持するようになる。さらに、より重要なことは、参預会議の解体によって、薩摩藩が中央政局の調停役をはたすことを一時的に断念し、一藩規模での富国強兵にいっそう努めるようになったことである。このことは、薩摩藩をして、のちに対幕強硬路線を歩ませる遠因となるのである。

 一方、慶喜は幕府の側に立って参預会議を解体に追いやったが、この頃から朝廷への接近の動きがより目立つようになってくる。それをうかがわせる最初の動きが、将軍後見職の辞任と禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮への就任である。

橋本玉蘭斎貞秀「横浜弌覧之真景」1871年

孝明天皇

山内容堂

松平春嶽

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