「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」10 将軍後見職就任
井伊の暗殺後に成立した久世広周(ひろちか)・安藤信正政権は、諸大名に対して低姿勢に転じた。また、大きく失墜した幕府権威を、天皇(朝廷)の力を借りて修復しようとした。すなわち、井伊暗殺の翌月にあたる万延元年(1860年)4月、京都所司代酒井忠義(ただよし)を介して、関白九条尚忠(ひさただ)に、孝明天皇の実妹であった和宮の将軍家茂への降嫁を要請した。孝明天皇は、和宮がすでに6歳のときに有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約をしていることなどから反対したが、再三の要請を受け、いったん許可して取り消すなどの曲折を経たものの、その年末に降嫁決定となった。翌年10月、和宮は京都をたち、江戸入り、文久2年(1862年)2月11日、将軍家茂との婚儀が行われた。
しかし、この降嫁は、徳川政権に大きな犠牲を強いることになる。天皇は、降嫁を認める交換条件として、幕府に攘夷の実行に向けて具体的なプランを提出することを求めたからである。そして当初、攘夷の実行など全く考えていなかった幕府首脳は、公武合体の実現を急ぐあまり、万延元年(1860年)7月の時点で、7・8年ないし10年をめどに、通商条約を破棄する(攘夷を実行する)ことを老中の返答書でもって天皇に約束してしまう。
そうしたなか、ようやく井伊の暗殺から半年を経過した9月4日になって、一橋慶喜や松平春嶽(松平慶永。隠居・謹慎処分後、春嶽の号を多用)らの謹慎が免除となる。万延元年は1年で終わり、時代は文久期(1861~63)へと移行する。この文久期の最大の特色は、天皇・朝廷が国政を担当する重要な一員となり、朝廷関係者の幕府政治への介入の動きが露骨となってくることである。また、こうした動きに伴って、諸藩の中に国政に自分たちの声を反映させようとする動きも一気に出てくる。そうした動きの先頭を切ったのが長州藩と薩摩藩だった。
長州藩は、文久2年(1861年)5月、京都へ直目付(じきめつけ)長井雅楽(うた)を送り込み、「航海遠略策」と呼ばれた積極的な海外進出論を朝廷関係者に提示する。しかし、藩内からも全国各地の攘夷派からも総攻撃を受け、文久2年(1862年)7月、藩論を「破約攘夷」(幕府の結んだ条約を破棄して攘夷を行う)に大転換。それ以後、三条実美ら朝廷内の攘夷派との結びつきを強め、攘夷運動を引っ張っていく存在となる。
幕府との関係で、より重要な動きを見せたのが薩摩藩。同藩は、井伊暗殺以来、幕府独裁政治が破綻したとの認識のもと、朝廷と幕府が互いに協力して挙国体制を築くことが、対外危機を乗り切るうえで、何よりも重要だとした。そして、そのためには、旧一橋派の赦免・復帰と、井伊グループの一掃、ならびに幕府・朝廷双方の抜本的な改革が不可欠だとした。そこで求められたのが、故島津斉彬(安政5年【1858年】7月16日病死)の希望でもあった一橋慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の大老就任であった。
こうした方針を固めた薩摩藩は島津久光(斉彬の異母弟で、斉彬の没後藩主となった島津忠義の実父で、事実上藩政を掌握)が、文久2年(1862年)4月、多数の兵士を引き連れて上洛し、以上のようなプランを朝廷にのませる。そして、翌5月に、勅使に任命された大原重徳(しげとみ)を護衛して江戸に下り、7月に慶喜の将軍後見職就任と、春嶽の政事総裁職(越前藩側が、大老職を家格に合わないとして拒否したため、新職の創設となった)就任を、ともに強引に幕府に認めさせた。このように、薩摩藩の軍事力と朝命を振りかざした勅使の圧力の前に、慶喜・春嶽両人の幕政への参加が達成されたことで、徳川政権の権威が劇的に低下したことは、誰の目にも明らかとなった。
両者によってさまざまな幕政改革が行われた。最も重要な歴史的意義を有したのは、参勤交代緩和令。これによって、諸大名の参勤条件が大幅に緩和(参勤を隔年から3年に1度とする、大名妻子の国元居住を許すなど)された。さらに京都守護職の新設や安政の大獄で犠牲となった人物の名誉回復もなされた。また、軍制改革(具体的には海軍の建設)が推進された。
月岡芳年「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」
和宮降嫁の花嫁行列
松平春嶽
「島津久光」尚古集成館
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