「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」7 (3)日米修好通商条約①

 「日米修好通商条約の無勅許調印→尊王攘夷運動の激化→安政の大獄→桜田門外の変」については、正確に理解しないと一橋家時代の慶喜の「隠居謹慎」の実態も見えてこない。まず、日米修好通商条約調印について。この条約は、天皇の勅許を得られないまま締結されたことが問題視され、これを契機に尊王攘夷運動が激化し、強引に条約を締結した井伊直弼を悪の張本人のように見なし、井伊が桜田門外の変で殺されたのも自業自得のように扱われることが多い。しかし、それは正しい見方だろうか?結論から言えば、あの時点で無勅許であろうと条約に調印した幕府の判断は正しかったと思っている。井伊は、その出身地彦根では「開国の英傑」とされるが、それは決して身びいきだけの評価ではないと思う。まず、日米修好通商条約締結に至る経過を見よう。

 日米和親条約の調印をうけて、安政3年(1856年)7月、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に到着。日米交渉は第二段階に入った。ハリスが来日して2か月後の安政3年(1856年)10月、清国で「アロー号事件」(第二次アヘン戦争)が起きる。現地のイギリス海軍は広東の市街を砲撃。イギリスは軍隊の増派を決定し、フランスもイギリスと行動をともにする。このように清国情勢が緊迫の度を深める中、安政4年(1857年)6月、卓越した調整能力で時代を牽引してきた阿部正弘がわずか39歳で病死してしまう。阿部は日米和親条約を締結した翌安政2年(1855年)10月、老中主席を佐倉藩主堀田正睦(積極的開国論者であり、推挙したのは譜代大名の最大実力者だった井伊直弼)にゆずっていたが、阿部を失った堀田は、独力で、難局に当たらねばならなくなった。

 堀田はハリスの強硬な要請を受け入れ、安政4年(1857年)10月21日、ついにハリスが江戸城に登城し、将軍家定に謁見。アメリカ大統領ピアースの親書を提出し、公式に通商条約交渉の開始を要求した。同年末、本国から増援を得た英仏連合軍が広東に総攻撃を開始し、清国情勢は危機的状況となってきた。通商条約の必要性を力説するハリスに対し、堀田正義をはじめ幕閣は通商条約締結はやむを得ないと考え始めていたが、事があまりに重大なため判断を先延ばしにしていた。通商条約締結の希望を提言して1カ月経過しても一片の返書も与えない幕府に業を煮やしたハリスはこう言って堀田を恫喝する。

「日本政府、もし鎖国の墨守を選ばば、余は断然旗幟を撤して帰国せんのみ。されば平和の使者に代わって来らんものは幾隊の軍艦ならん。日本の迷夢を覚醒せんものは、砲弾弾雨のほかはあらず」

 驚いた堀田は、幕吏のうち最も俊才で開明的で外国通でもある目付岩瀬忠震、下田奉行井上清直を急遽、全権委員に任命し、条約交渉にあたらせることにする。また幕府は、条約締結やむなしとして、内容の協議を進めるとともに、諸大名らの意見を聴取し、国内の意見一致を目指す。大名の合意は形成されつつあったが、幕府は国内の意見一致を確かなものとするため、堀田を上洛させ、孝明天皇から条約調印の勅許を得ようと図る。容易に勅許が得られると考えていた堀田は、ハリスと交渉して条約調印予定日を2か月後の3月5日とする。しかし、入京した堀田は勅許を得るべく朝廷工作を行うも失敗。天皇の勅許は得られない。3月20日になって下された勅諚は「通商条約調印問題については、御三家以下の諸大名の意見を聞いたうえで、改めて願い出るように」というものだった。

 首席老中堀田正義の京都工作の失敗は、幕府にとって外交上の危機であり、同時に、内政上の危機でもあった。幕府は内政・外交とも朝廷から委任され、幕府が朝廷に伺った事項はそのまま承認されており、今回のような不承認はそれまでの幕府・朝廷の関係では考えられないことだったからである。この難局に当たり登場するのが幕府の切り札井伊直弼。堀田が江戸へ帰着した3日後の安政5年(1858年)4月23日、彦根35万石の藩主で譜代大名のリーダー井伊直弼44歳が大老に任じられた。堀田がハリスに約束した調印予定日の3月5日から、既に1カ月以上過ぎている。井伊は直ちに通商条約調印問題に取り組む。

条約交渉のため江戸城を訪れるハリス 真ん中がハリス

アメリカ総領事タウンゼント・ハリス

第二次アヘン戦争(1856~60) 上陸を図るイギリス・フランス連合軍

第二次アヘン戦争(1856~60)英仏連合軍に略奪・焼き討ち・破壊される円明園

「堀田正睦像」佐倉城址公園

 堀田は「蘭癖」(らんぺき)と綽名される西洋かぶれで積極的開国論者だった

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