「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」6 (3)一橋家②将軍継嗣問題
慶喜が相続した御三卿のひとつ一橋家というのは、御三家のような独立した大名ではない。この御三卿の制度は、八代将軍吉宗が始めたもので、将軍の血筋をプールしておくのが目的であった。生きて健康に暮らしていることだけが将軍家への義務であり、他に役目も実務もない。法制上は将軍家の家族で、十万石の賄料(まかないりょう。経費)とはいえ、藩ではないため本来の家来はいない。家来の身分は将軍直参(旗本)であり、それが出向の形をとる。ただし、水戸からついてきた者もいたので、慶喜付きの家来には、旗本系の者と水戸系の者(一橋家の家来になることによって幕臣となった)とがいた。
一橋家での慶喜の毎日は、物事を学ぶ日課で詰まっている。当然、個人教授である。習字、漢学、国語、和歌、馬術、弓術、剣術、槍術、騎射術の九科目であった。どの科目も世間の秀才並みのことはできたが、それ以上ではなかった。慶喜は、教授されることが苦手で、それよりも自得する才能に長けている様子で、学ぶことにあまり熱心でなかった。
将軍家慶は、側近が不思議に思うほど、この慶喜のことを愛した。水戸斉昭を警戒する気持ちは強かったが、子の健やかで反応の鋭敏な若者がお気に入りだった。しかし、この家慶は嘉永6年(1853年)6月22日、慶喜についてなんの処置をすることもなく病死してしまった。すでにペリーは来ていた。この月の1日、ペリー提督は東洋艦隊を率いて江戸湾口に入り、幕府を恫喝して開国させようとした。幕閣だけでなく天下はこぞって騒然となった。その真っただ中で将軍家慶が病死したのである。跡を継いだ13代将軍家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく、ここに将軍継嗣問題が浮上する。
持っている限りの人力と財力を使って、一橋慶喜を将軍世子に押し立てようとしたのが松平慶永(よしなが)。越前藩主 (親藩大名)の慶永は、薩摩藩主島津斉彬(外様大名)ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震(ただなり)らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、首席老中阿部正弘の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代大名の筆頭井伊直弼は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻を招くとの考えのもとに、血統が近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。
ところが安政4年【1857年】6月17日、阿部正弘が急死。慶喜が14代将軍になりうる可能性は、この阿部の死で絶えたと言っていい。阿部による安政の改革に反発する譜代大名の巻き返しが始まり、「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発する大奥もこれに加担する。さらに条約勅許問題を巡る開国派と攘夷派の対立も加わって事態は複雑となった(一橋派では島津斉彬は開国派、徳川斉昭は攘夷派に属し、互いに自己の外交路線実現のために一橋慶喜擁立を目指した。これは南紀派も同様であった)。一橋派の中心人物の一人島津斉彬も安政5年(1858)7月16日に病死してしまう。
安政5年(1858年)、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は彦根藩主井伊直弼を大老に据えて、6月に家定の名で後継者を慶福とすることが発表された。これについては南紀派による画策であると言われているが、家定自身も廃人もしくはそれに近い重態ではあったものの、完全に意思能力が失われていたわけではないため、本人の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする見方もある。家定の側小姓で後に勘定奉行などを歴任した朝比奈閑水の回想の記録には、家定は「自分より慶喜の方が美形で慶喜が登城すると大奥が騒ぐ」という理由で慶喜に反感を抱いていたと記されている。久住真也「幕末の将軍」(講談社)によれば、一橋派の言い分自体が家定を「暗愚、愚昧、病弱」扱いするに等しいもので「まだ若く世子誕生の見込みもある」と認識していた家定は一橋派を憎悪していたという。いずれにしても南紀派の勝利に終わった事実は間違いなく、7月に家定が没すると、慶福は「家茂」と改名して新しい将軍となった。
13代将軍徳川家定
松平慶永
島津斉彬
西郷隆盛
若き日の西郷は、島津斉彬の命を受けて慶喜を将軍にすべく奔走した。後には慶喜の最大の敵になるのだが。
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