「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」4 (2)斉昭の藩政改革②

 藩政改革のなかで特に斉昭が意を注いだのが藩校「弘道館」の建設だった。斉昭は藩主就任後はじめて水戸に帰国(天保4年)した頃から藩校建設に積極的な姿勢を示したが、当時は「天保の大飢饉」(天保4年【1833】~天保10年【1839年】1835年から1837年にかけて最大規模化した)で不安が高まり、藩財政もさらに困窮化し、藩校の設立には反対意見も多くあったが、斉昭は方針を変えず、天保6年(1835年)に幕府から向こう5年間、毎年5000両の金が下賜されることが内定すると計画の実行に踏み切る。弘道館が建設された水戸城三の丸の地には、もとは重臣たちの屋敷があった。重臣たちの屋敷を移転させてまで、城内三の丸に藩校を建てたことからも、斉昭の学問による人材育成への意欲が分かる。しかし、当然ながら門閥派の重臣たちとの対立を深めることになったが。

 斉昭の藩政改革は、農村の復興、安定化のための全領検地、武士の自覚を高めるための藩校弘道館の建設にとどまらなかった。後期になると斉昭は、洋式兵法を加味した軍制改革を行う。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の初回でも描かれていたが、異国船相手の備えとして軍事演習の「追鳥狩(おいとりがり)」を実施。特に天保11年の第1回追鳥狩は、「騎士3000、雑兵(ぞうひょう)2万」が動員される大規模なものだった。その後も追鳥狩は天保年間に4回、安政年間に4回と計9回行われている。さらに斉昭は敬神廃仏の宗教政策を実施。天保13年暮れに行なった、鋳砲の材を得るための寺院梵鐘の強制的供出、その後続いた神仏分離などは、領内寺院の反発とその本寺にあたる江戸などの大寺院の非難を招いた。

 ところで、NHK大河ドラマ『青天を衝け』第3話で、徳川斉昭が大砲を幕府に献上した場面があったが、斉昭が幕府に大砲を献上したのは、ペリー来航直後の嘉永6年(1853)6月のこと。斉昭は熱心に大砲を製造し、天保10年(1839)11月までに「震天動地」と名付けられた大砲をはじめ14門が完成したが、これは口径砲身ともに比較的小さなものだった。そこで、さらに大きな大砲の製造を計画し、斉昭自身が設計図を描き、天保11年(1840)5月に砲身の長い大砲の鋳造を命じる。水戸藩は、水戸城外の神崎寺(かみさきじ)の側に四基の炉を設け、銅2千貫、職人120人を準備し製造に着手したが、1回目と2回目は、製造に失敗。3回目の製造となった天保13年(1842)9月にようやく成功した。

 この大砲の成功によって、斉昭はさらに多くの大砲の鋳造を計画するが、原料の銅がなくなり、領内は不作が続いて農民が困窮していることもあり、領内の寺院の銅鐘・銅仏を供出させ、それを材料として大砲を鋳造することとなった。天保13年12月、領内の寺院の銅仏は石仏に、銅鐘は板木に取り替えるよう命じる命令が出されているが、この政策によって水戸領内で没収された数は、梵鐘323,半鐘265、鰐口301,濡仏8に及んだ(『水戸市史』より)。

 こうして、寺院から没収された鐘を材料として神崎鋳造所で製造されたのが、口径一尺二寸の「太極」砲以下75門の大砲だった。このうち「太極」と名付けられた1門を残し、74門が、嘉永6年6月ぺリー来航直後、幕府に献上され、はるばる水戸から江戸に運ばれた。その時は物珍しくて大勢の見物人が街道脇に並んだそうだが、この様子が、『青天を衝け』で描かれたのである。この献上の際に一つだけ水戸に残された「太極」砲は、現在も水戸市の常磐神社(義烈館)に現存している。

 いずれにせよ、これらの政策は、幕府の伝統的な基本政策(軍備強化を否定、宗門改制度を採用して仏教をなかば国教化)に反するものであった。それでも幕府は、水野忠邦が幕府の天保の改革を推進していた時期には、それを黙認していた。むしろ天保14年(1843)5月には、斉昭は江戸城で将軍家慶から異例の表彰を受け、宝刀などを授けられた。藩政が行き届いているとして、水戸藩の改革を幕府が高く評価したのです。ところが、この年の閏9月に水野が失脚すると、幕府は水戸藩に対する態度を一変。翌年5月、幕府は斉昭になんと隠居謹慎を命じたのである。もちろん軍備の増強と廃仏政策がその理由であった。

飢饉の際、救小屋に収容され保護を受ける罹災民(渡辺崋山画『荒歳流民救恤図』)

徳川斉昭

 「烈公」という諡号(しごう)に違わず、荒々しく厳しい性格であった。尊王攘夷を掲げ、強烈な個性で志士たちに大きな影響を与えた。

藩校 弘道館

水戸城と弘道館

「追鳥狩図屏風」茨城県立歴史館

『太極』砲 常磐神社義烈館

「常磐神社」水戸市 水戸光圀を祀る神社

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