「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」1 (1)誕生①水戸徳川家

 複雑に展開した幕末日本を理解する上でのキーマンを二人挙げろ、と言われたら西郷と慶喜。特に、西郷が元治元年(1864年)流刑先の沖永良部島からもどり、京で軍賦役(軍司令官)に就任してから慶応4年(1868年)の「鳥羽伏見の戦」いまでの政局はこの2人を軸に展開していったと言っていい。では、キーマンを一人挙げろと言われたら?今なら、慶喜(七郎麿→一橋慶喜→徳川慶喜)を挙げる。そして、彼を軸に見ていくことで、幕末史を倒幕を主導した薩長側からではなくより客観的にとらえることができるように思っている。では、慶喜誕生から見てみよう。

 慶喜は、天保8年(1837)9月29日、江戸小石川にあった水戸藩上屋敷で生まれた。七男であったため「七郎麿」(しちろうまろ)と命名。父は、水戸徳川家第九代当主徳川斉昭。母は、有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の娘吉子(よしこ)。この両親のもとに生まれたことが、慶喜のその後の生き方を根底から規定したと言える。

 まず、父斉昭が当主の水戸徳川家について。尾張徳川家、紀州徳川家とともに徳川御三家のひとつだが、御三家は親藩(一門)のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された別格の家。この御三家のうち、水戸はもっとも石高が少なく35万石(尾張は62万石、紀州は56万石)、官位も他の二家が「大納言」であるのに対し、「中納言」でしかない。また「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」ことになっており、水戸家から入ることはなかった。

 このように水戸徳川家は、他の二家より一格さげた扱いだったが、他の二家より優遇されている点が一つだけあった。それは、参勤交代の義務が免除され、当主は江戸屋敷に常駐する特権が与えられていたこと。将軍とともに常に江戸にいるということで「天下の副将軍」といわれた。江戸幕府の官制に「副将軍」という役職はないが、水戸黄門(水戸徳川家第二代当主徳川光圀)以来、江戸の庶民はそう言い囃した。

 しかし、このこと以上に慶喜の生き方を考えるうえで重要なのは、水戸徳川家には、藩祖徳川頼房、二代徳川光圀以来、尊王学である「水戸学」の伝統が脈々として受け継がれて来たことである。水戸家は歴代、多大の藩費をつかって在野の学者を集め、「大日本史」を編纂し続けた。徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、完成したのは明治時代になってから。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年【元中9年/明徳3年】までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。「大日本史」の歴史観は「尊王賤覇(せんぱ)」であり、京都朝廷を尊び、武家政権を卑しむ。たとえば武家は足利尊氏を源氏政権の復興者として尊崇するのに、水戸学の史観にあっては賊であった。また、水戸学にあっては、在来なら取るに足らぬ河内の土豪であった楠木正成を、武家政権に反抗したということで稀世の忠臣としてまつり上げた。水戸学の史観は徳川幕府への痛烈な批判であるといっていい。「代々、ご謀叛のお家筋である」と、徳川旗本は漠然と水戸をそうみていた。後年、慶喜自身が語っているが、水戸家には次のような水戸黄門以来の秘密の言い伝えがあったとされる。

「もし江戸の徳川家と今日の朝廷のあいだに弓矢のことがあればいさぎよく弓矢を捨て、京を奉ぜよ」

 井伊直弼と徳川斉昭の対立、安政の大獄での水戸家弾圧は、このような水戸家の特質を理解しないとみえてこない。井伊直弼は譜代大名筆頭の彦根藩井伊家(水戸徳川家と同じ35万石)の第15代当主。そもそも譜代大名は、徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川家を支える藩屏としたのがはじまりで、当然ながら徳川家への忠誠心は厚い。井伊家はその譜代筆頭。初代藩主井伊直政は家康の命により、旧武田家の家臣を付属され、朱色の装備で統一された「赤備え」部隊を率いた。「赤備え」を率いた直政は、「小牧・長久手の戦い」や「関ヶ原の戦い」などで武功をあげ、「徳川四天王」のひとりとしてのちに「開国の元勲」と称されるほど、家康の天下統一事業に重要な役割を果たした。こんな人物を藩祖とする井伊直弼と尊王学の水戸学の伝統を受け継ぐ徳川斉昭、反目しあったのは当然だろう。

「徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像」 水戸市千波公園

「七郎麿」【後の将軍徳川慶喜】 北海道釧路市 鳥取神社

徳川斉昭

徳川光圀(水戸光圀)

「徳川光圀公像」 水戸市千波公園

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