「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」14 秋(3)「広尾原」

 日本の秋の到来をイメージさせる草と言えば「すすき」(芒、薄)。

     「山は暮れて野は黄昏の芒かな」蕪村

(山はすでにとっぷりと暮れてしまったが、山すその野にはかすかに黄昏(たそがれ)の光が残り、すすきの穂がほの白く見えることだ)

 すすきが散り始めるころにはもう冬まじか。

     「ちる芒寒くなるのが目にみゆる」一茶

(秋が深まり、日に日に散っていくすすきの穂。それを見ると、日ごとに寒くなってくるのが目に見えるようだ。)

 このすすき、荒れ野に生えることでも有名で、「すすき野」などというのは、すすきしか生えない荒れた土地という意味だ。『江戸名所図会』に「広尾原」という挿絵がある。秋の一日、広尾という名前にぴったりな、すすきの茂る広大な原っぱを草花摘みを楽しみながらゆく町家の家族一行の様子が描かれている。広尾原は、紅葉の名所だったという蜀江台と麻布の台地に挟まれた、渋谷川が流れる南の地。春には土筆や若草、夏から秋には七草が咲きそろい、武蔵野の原風景を思わせる「江戸一番の野原」とまで言われた場所だった。

広重『絵本江戸土産』「麻布古川 相模殿橋 広尾之原」

「江都(こうと)第一の郊原(こうげん)にして、人のよく知る所なり。されば、四時(しいじ)草木(そうもく)の花(はな)更に人力(じんりょく)を假(か)らずといえども、自然(おのずから)咲(さき)つづき、月の夜しがら(すがら ~の間)古(いにしえ)の歌に見えたる武蔵野の気色(けしき)はこれかと思うばかり寂寥として余情(よせい)深し」

 広重の『絵本江戸土産』「麻布古川 相模殿橋 広尾之原」と「名所江戸百景 広尾ふる川」はほぼ同じ構図で描かれているが、橋は「四之橋」(橋の北側に、土屋相模守の下屋敷があったことから、別名、相模殿橋と呼ばれていた)、川は「古川」(渋谷川)。古川の源流のひとつは、玉川上水。玉川上水が四ツ谷大木戸の水番所を過ぎて暗渠に突入する際、水圧を調整する目的で、南側に捨てミズ用の水路が掘られた。それを、もともとあった、穏田川(渋谷川)に接続して、江戸湊までの約10キロを結ぶ放水路が作られた。延宝3年(1675)に、麻布山近辺に大名屋敷や寺社仏閣を建造するための物資輸送の手段として、江戸湊までが運河として再整備されたが、この時、この運河は、新しく掘られたという意で「新堀川」と命名され、それに対して、運河終点の麻布十番より上流は、古くからの流れの意で、「古川」と呼ばれるようになった。古川には、麻生十番の船着き場より、数百メートル間隔で、順に一之橋から四之橋まで連番名称で橋が架けられ、現在も全ての橋と名称が残る。 

 「名所江戸百景 広尾ふる川」の左手の二階建ての家屋は、麻布田島町にあった「尾張屋」。江戸自慢の番付にも掲載されるほど、江戸グルメなら誰もが知っていた鰻屋だった。蒲焼の他にも汁粉を売っていて美味しいと評判だった。ある時それを聞いた広尾原の狐が、美女に化けて汁粉を買いに来たという。そこで付いた名前が「狐汁粉」。それにあやかって鰻も「狐鰻」と称して評判となった。

そして「四之橋」の西方(絵の上方)かなたに広がるのが広尾原。現在の都立広尾病院やレストラン「アラジン」がある一帯だ。今では当時の様子を想像するのも困難だが、目黒の「国立科学博物館附属自然教育園」は、当時の武蔵野の面影を色濃く残している。

 ところで、江戸時代には「枯野見」という風習があった。「枯れた草の原っぱを見物に行く冬のハイキングのようなもの。江戸時代の人たちは、冬枯れの野原にも風情を感じてきた。

     「暮れまだき星の輝く枯野かな」蕪村

(太陽は山の端に落ちたが、枯野は残照を受けて、まだ明るさが漂っている。暮れるにはまだ間があるが、空にははや星が2つ3つ輝いている)

 江戸の人々の「枯野」に抱いた感性からは、暗さ、わびしさは伝わってこない。芭蕉の辞世の句とされる次の一句も、そこを間違えないで理解する必要がある。

     「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉

(旅の途中で病気になり倒れてしまったけれども、夢はどこかの枯野を、まだかけ廻っている)

広重「不二三十六景 武蔵野」

広重『絵本江戸土産』「麻布古川 相模殿橋 広尾之原」

広重「名所江戸百景 広尾ふる川」

国貞「江戸名所百人美女 ふる川」

 コマ絵に描かれているのが「尾張屋」=「狐鰻」

二代広重「三十六花撰 東京 広尾原桔梗」

『江戸名所図会』「広尾原」

広重「富士三十六景 甲斐大月の原」

川瀬巴水「市川の晩秋」

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