「マリー・アントワネットとフランス」21  革命の光と闇

 タンプル塔に閉じ込められてからのマリー・アントワネットの心の支えは、外国軍によよって自分たちは解放される、という希望だった。実際、8月下旬にオーストリア軍とプロイセン軍がフランス領内に進攻し、パリめざして進行中であることを知った。しかし、9月20日、マリー・アントワネットの希望を打ち砕く出来事が起こる。4月の開戦以来一方的に負け続けてきたフランス軍が、この日、国境から90キロのところにあるヴァルミーで初めて勝利を収め、プロイセン軍を押し返したのである。フランス軍は銃どころか軍服・軍靴さえも兵士たちに行き渡らないというボロボロの軍隊だった。そんなフランス軍が、装備も完璧、きっちりと統制のとれたヨーロッパ最高の軍隊プロイセン軍に勝ってしまったのだ。身分・学歴・年齢等に関係なく、軍人として優れたものを将軍に登用するという方針で再編成された実力本位の国民軍的軍隊の方が、生まれによる身分によって階級が決まる貴族的軍隊よりも強いことを証明したのだ。この時、プロイセン軍に同行して戦いの一部始終を見守っていた文豪ゲーテはこう言った。

「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」

 この「ヴァルミーの戦い」以降、フランス軍が優位に立ち、オーストリア軍とプロイセン軍をフランス領内から追い払っただけでなく、今度は逆にベルギーに進攻する。フランス国民は狂喜した。しかしそれは、国王一家にとっては絶望以外の何ものでもなかった。

 パリでは9月初めに、国王一家の心を凍らせるような出来事があった。「九月虐殺事件」である。パリ市内にあった数カ所の牢獄に民衆が乱入し、囚人千数百人を虐殺したのだ。なぜこのような虐殺が起きてしまったのか? 8月11日、立法議会はパリ市のコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認。パリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。そんな中、 8月26日に国境の都市ロンウィが陥落。9月2日には、ヴェルダンがプロイセン軍に包囲されているとの報がパリに届く。ヴェルダンの要塞が敵の手に落ちれば、途中には要塞がないので、パリまでのルートはがら空き。人びとは「パリ陥落も時間の問題か」と戦々恐々となった。義勇兵の募集が行われたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れる。「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」。こうして8月30日、パリ市内で家宅捜索が行われ、約3千人の容疑者が逮捕された。牢獄は囚人であふれる。

虐殺への引き金となったのは次のようなダントンの演説。

「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」

9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、午後から民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。一連の虐殺行為は、監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて、有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。当時アベイとカルム、その他の牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。聖職者民事基本法への宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイの牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルムの牢獄におもむき、150人の聖職者の大部分を殺害した。

虐殺は数日間続いた。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけようとまでした。

ランバル公妃の首と心臓を槍に串刺しにし、胴体を引きずった群衆がタンプル塔に押し寄せ、王妃に見せつけようとする様子

アントワーヌ=フランソワ・カレ「ランバル公爵夫人」ヴェルサイユ宮殿

ラ・フォルス監獄の門外で暴徒に囲まれるランバル公妃

ランバル公妃殺害の瞬間

レオン=マクシム・フェーヴル「ランバル公爵夫人の死」フランス革命博物館

「1795年頃のタンプル塔」カルナヴァレ美術館 

 かつてテンプル騎士団が所有していた塔は、14世紀にヨハネ修道院に引き継がれ、革命期には要人の牢獄として使われた

オラース・ヴェルネ「ヴァルミーの戦い」ロンドン・ナショナルギャラリー

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