「マリー・アントワネットとフランス」15 テュイルリー宮殿

 午後の早い時間に始まったパリへの旅は7時間もかかった。王宮の倉庫から出された小麦粉を積んだ車、それを引っ張る女性たち。市民軍。群集に取り囲まれた国王・王妃らの馬車。それだけではない。朝の虐殺の被害者たちの首も槍の先に刺されて同道した。首を槍に突き刺して街を練り歩くことは、バスチーユ攻略の際にも行われていたし、今後も行われるが、このような残虐行為は少なくない人びとの革命への熱意に冷や水を浴びせかけた。例えば、シャトーブリアン子爵。後に19世紀フランス文学を代表する作家のひとりとなり、政治家としても活躍するがこんな文章を残している。

「あの断ち切られた首、そしてそのすぐ後に見た首が、私の政治的考えを変えた。私は人食い人種たちの行状にぞっとし、フランスを離れてどこか遠い国に行こうという考えが心に芽生えた」

 マリー・アントワネットが「ヴェルサイユ行進事件」で受けた心の傷は相当に深く、屈辱感と怒りを忘れることができなかった。ちょっとした物音にも心を震わせた。傍で彼女の様子を見守っていたスタール夫人によると、外国大使たちが表敬訪問に訪れてきても、「涙で声を詰まらせることなしには一語たりとも発せなかった」という。とくに後々までアントワネットを苦しめたのは、命がけで自分を守ってくれた二人の近衛兵の首が槍に突き刺されたままずっとパリまで揺れ動いていた光景だった。

 国王一家が新しい居城テュイルリー宮殿に着いたのは夜の10時近くだった。この宮殿は、16世紀にカトリーヌ・ド・メディシスによって建設され、ルイ14世も、1682年にヴェルサイユに移るまでは、パリ滞在中はここを居城とした。しかしその後、ルイ15世が少年時代を過ごして以来、70年近くも王家から見捨てられたままになっていて、種々雑多な人びとが勝手に住み着き、荒れ放題に荒れ果てていた。

 テュイルリー宮殿の内装整備が急ピッチで進められ、改装整備が進むにつれて名前にふさわしく宮殿らしくなっていった。革命は沈静化の兆しを見せていた。国民議会の王家に対する対応も非常に丁重なものだった。予算面でも王室に最大限の配慮がなされ、テュイルリー宮殿での宮廷費は年間2500万リーヴル(約250億円)だった。廷臣侍女の数は減ったが、ヴェルサイユで行われていた儀式も徐々に復活した。起床の儀、毎日のミサ、謁見・・・・。コンサート、宴会、舞踏会、演劇の上演はなく、ヴェルサイユ時代のような宮廷のきらびやかさはなかったが。

 マリー・アントワネットは王太子を連れてテュイルリー公園を散歩した。庭園はこれまで通り解放されており、王妃に出会うと人々は帽子を取って挨拶した。王太子は人々に好感を与え、人気者になった。またアントワネットは、期待されていた慈善事業(フランス王妃の伝統的義務とされていた)にも乗り出す。孤児院を訪問したり、民主運動の拠点サンタントワーヌ街の工場を視察に訪れたりした。復活祭の週に伝統的に行われる貧者の洗足の儀式にルイ16世とともに出席し、ルイ16世が手ずから洗った貧者の足をタオルで拭くことまで行った。彼女は1790年5月頃の段階では、次のような希望的観測を持っていた。

「この不幸な人びとに信頼感を持たせなければなりません。私たちに対して不信感を持つように、そそて、それが持続するように、ずいぶんと工作がなされてきたのですもの!人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図の純粋さを知らしめるしかありません。人びとは、遅かれ早かれ、自分たち自身の幸福のために、唯一の指導者(注:ルイ16世)とともにあることがどんなに大切かを知ることでしょう。この指導者というのが、善意の限りを尽くし、人びとが平安に幸せに暮らせるように、いつでも自分の意見、安全、自由までをも犠牲にしてきた人物なのですもの!これほどの苦労の数々、これほどの美徳がいつの日か報いられることがないなどと、どうして信じられるでしょう!」

 革命が鎮静化の様相を見せる中、ルイ16世とマリー・アントワネットは革命と和解するように努めているかに見えた。

1789年10月6日 ヴェルサイユからパリに向かう民衆 槍に突き刺さっているのは虐殺された近衛兵の頭

1789年10月6日 民衆によってパリに連行される国王一家

1789年10月6日パリに着いた国王一家

ニコラ・ジャン・バティスト・ラグネ「オルセー河岸から見たテュイルリー宮」カルナヴァレ美術館

ジロデ・トリオゾン「シャトーブリアン子爵」サン・マロ歴史民族博物館

1789年7月14日 槍の先に掲げられるベルナールとフレッセル市長の首 

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