「マリア・テレジアとフランス」1 「外交革命」(1)フランスVSハプスブルク①イタリア戦争

 マリア・テレジアと言えば、「ヴェルサイユのバラ」マリー・アントワネットの母として有名だが、マリーの結婚はフランス(ブルボン家)とハプスブルク家の「外交革命」の結果としてなされた。外交「革命」と呼ばれる以上、外交政策の大転換でなければならないが、それが両者にとってどれほど大きなが転換だったか。

 フランスは、15世紀末から250年間にわたってハプスブルク家と敵対関係にあった。1453年に英仏百年戦争を終結させフランスを事実上統一したヴァロワ朝シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。この戦争でフランスが対立したのが、1492年に統一を果たしたスペイン。スペインは1516年、ハプスブルク家のマクシミリアン1世の孫カルロス1世が即位したが、1519年にマクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承。さらに、この年の6月28日には生涯の宿敵・フランソワ1世【在位:1515年―1547年】を選挙で破って神聖ローマ帝国皇帝に選出される(カール5世)。

 カールとフランソワは、1525年2月、イタリアの領有をかけ、北イタリアにおいて激突。「パヴィアの戦い」だ。両軍の戦力はカール5世率いる帝国軍2万4千、対するフランソワ1世率いるフランス軍もほぼ同数で兵力は互角だったが、帝国軍の小銃と長槍を効果的に使った戦術によりカール5世が勝利し、総崩れとなったフランス軍は帝国軍の10倍の8千もの死傷者を出し、その上あろうことか総司令官であるフランソワ1世自身が捕虜になるという決定的な敗北を喫した。フランスは存亡の危機に立たされる。勝ったカールは捕虜にしたフランソワを投獄し、王の釈放の条件として全イタリアはもちろんブルゴーニュ、ミラノ、フランドルなどから手を引くよう要求する。1526年フランソワはやむなくこの屈辱的な要求を受け入れ、さらにカールの姉エレオノールを妻とすること、二人の子を人質としてスペインに送ることなどを条件にようやく釈放される。(「マドリード条約」 実はカール5世も、ドイツ諸侯、イタリア諸都市対策[宗教改革問題]に加え、オスマン帝国がウィーンに迫るという事態にも直面していたので戦争継続は困難であった)

しかしフランソワ1世は釈放されるとあっさり約束を破り、条約を破棄し、復讐戦に立ち上がる。カール5世の急激な勢力拡大を恐れたローマ教皇、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国らとカール5世包囲網を結成。孤立したカール5世は 1527年、ローマ教皇に圧力をかけるためスペイン軍を派遣、5月6日にカールの名のもとで「サッコ・ディ・ローマ」(「ローマの劫略」)といわれた略奪・破壊が行われた。盛期ルネサンスの中心だったローマには、システィーナ礼拝堂天井画などごく一部を除いてルネサンス年の面影は薄いが、その原因はこの「ローマの劫略」にある。イタリア=ルネサンスの「終わりの始まり」とされている。

 フランソワ1世は、カールと戦うためなら異端者とも、異教徒とも手を組んだ。1517年に本格的に宗教改革を始めたマルティン・ルターは1521年、ローマ教皇によって破門されるが、ザクセン選帝侯の保護を受ける。フランソワは、カトリック国フランスの王でありながら、カールが対応に苦慮するザクセン選帝侯らドイツ国内のプロテスタント勢力とも手を結んだ。それだけではない。1525年には、敵の敵は味方とばかりに、ハプスブルク家と対立するオスマン帝国のスレイマン大帝に接近(パヴィアの戦いに敗れ、カール5世の捕虜となったフランソワ1世の釈放のためにフランソワの母后がスレイマンに書簡で助力を要請したのが始まり)。1534年には正式な使節のやりとりが始まる。1536年初頭にはオスマン領内においてフランス人が交易を行う自由、フランス領事のオスマン領内常駐、さらに彼らによる領事裁判権を内容とする通商特権(いわゆる「カピチュレーション」)の賦与が約束される。1543年には、援助を求めたフランスの要請にこたえて、オスマン海軍はフランス軍と協力して、当時神聖ロー皇帝側についていたニースを攻略した。フランスとハプスブルク家は、ここまで激しく対立していた。

ジャン・クルーエ「フランソワ1世」ルーヴル美術館

1519アルブレヒト・デューラー 「マクシミリアン1世」ウィーン美術史美術館

ヤーコプ・ザイゼネッガー「カール5世」ウィーン美術史美術館

「スレイマーン大帝」ウィーン美術史美術館

1529第一次ウィーン包囲

1543年 フランス=オスマン連合艦隊によるニース包囲戦

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