「いざ吉原へ」12 妓楼(6)登楼②

 花魁に大事な馴染み客がかち合った場合、ひとりは自分が相手をするが、もう一人の寝床には妹分の振袖新造を名代(みょうだい)として差し出す風習があった。しかし、客は名代には手をつけてはならないという不文律があり、ただ話をするだけ。若い振袖新造とふたりきりで寝床にいながら手出しもできないとなれば、いわば蛇の生殺しの心境であろう。いっぽうの名代も、もし客と寝たことがわかれば、手ひどい折檻を受けた。

      「おいらんに叱られんすとけちな晩」

こうした独特の制度があったため、客は金さえ出せば思いのままというわけにはいかない。この不自由や不合理こそが吉原遊びの興趣でもあった。

 客が初めて登楼するのを「初会」という。遊女はよそよそしく、酒宴後も形式的な床入り。二回目が「裏」で、これを「裏を返す」という。遊女はまだ胸襟を開いてはくれないが多少親しさを見せてくれる。三回目で「馴染み」となるが、このとき「床花(とこばな)」という祝儀を遊女に与えるのが習慣になっていた。相場は寛政の頃で三両前後。まだ遊女が寝床に来ないうちに、そっと枕元の煙草盆の引き出しなどに入れておいてやるのが粋で、通人とされたが、次第に奥床しさはなくなっていった。馴染みになれば遊女はうちとけて食事もし、一家の主人に擬して専用の蝶足膳と象牙の箸が用意された。

      「三会目箸一膳の主になり」

 「惣花(そうばな)」とは、妓楼の全員に祝儀を与えること。客にとっては最大の見栄だったし、遊女にとっても大きな手柄となった。もっとも派手な惣花は、豪商紀伊国屋文左衛門が揚屋町の和泉屋でおこなったという、小粒(一分金=一両8万円として2万円)の豆まきであろう。

      「惣花に生きとし生けるものが出る」

 登楼した翌朝は、客が目を覚ました気配を察して、禿が、「もしえ、手水(ちょうず)をお使いなんし」と、洗面道具を持参した。当時、一般の人々の生活は朝が早く、泊まった客もたいていは明六ツ前、つまり夜明け前に起きて妓楼を出た。一夜を共にした遊女は階段のところまで、あるいは階段下まで客を見送る。特別に親密な間柄では、仲の町の茶屋で酒を酌み交わし、朝粥を食べてから大門で別れた。

      「鳳凰も大門まではついて来る」

登楼翌朝の別れを、「後朝(きぬぎぬ)の別れ」といった。遊女は名残惜しそうに、「また来なんし。つぎは、いつ来なんすえ」などと言いながら、後ろから羽織を着せかけたり、煙草入れを渡したりする。大門を出て歩きながら、客は「見返り柳」のところで、つい吉原の方を振り返ることも会ったろう。その後は、白々と明ける日本堤を歩いて、あるいは駕籠で帰途につく。

     「この雪によくかへつたと母はほめ」

 引手茶屋を通した客の場合は、茶屋の若い者が部屋のなかまではいってきて、屏風の外から、「お迎いでござります」と、声をかけて起こしてくれる。顔を洗って口をすすぎ、遊女と後朝の別れをした後、客は若い者に伴われて引手茶屋に向かう。二階の座敷に上がると、朝食が出た。そして、昨夜来の遊興費をまとめて支払う。いくらぐらいかかったか?戯作『廓宇久為寿(さとうぐいす)』(文政元年)の中の、引手茶屋の案内で京町の大見世に登楼した男の例。相手の遊女は昼三で、幇間一人と芸者二人を呼んで宴会もしたが、その金額は、しめて八両三分二朱。一両=8万円として71万円。まさに蕩尽。

 ところで、泊り客が朝になっても帰ろうとせず、そのまま妓楼にとどまるのが「居続け」。遊女は手練手管の限りを尽くし、言葉巧みに客に居続けを勧めた。もちろん、支払い額は雪だるま式にふえていく。こうした居続けをしていると、息子の場合は起こった親から押し込めにされたり、勘当されたりになりかねなかった。

歌麿「仮宅の後朝」

『青楼絵抄年中行事』 後朝の別れ

歌麿「青楼十二時 続 卯ノ刻」

 遊女が朝帰りの馴染み客に羽織を差し出している

渓斎英泉「浮世姿吉原大全 仲の町へ客を送る寝衣姿』

国貞「吉原時計 卯ノ刻 明六ツ」

広重「江戸名所之内 新吉原春曙ノ図」

 仲の町の桜が白みはじめる夜明け、角町の木戸口から頬被りをした遊客が、三々五々帰っていく

広重「東都名所 吉原雪の朝」

『青楼絵抄年中行事』 居続けの客。振袖新造は茶を持参し、また炭をおこして部屋をあたためている。禿は水を運び、世話を焼く。

『冬編笠由縁月影』 惣花。左下は、遊女の手から祝儀を受け取っている奉公人一同。

鈴木春信『風流艶色真似ゑもん』

 ようやく現れた花魁が、客と名代の間になにごともなかったかどうか、疑っているところ

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