「江戸の寺子屋と教育」11 師弟関係

 寺子屋は個人宅を教室代わりにしていたため、ひじょうに家庭的であり、師匠宅と寺子の過程との間に家族的な交流が頻繁に行われた。たとえば、師匠宅へ五節供の贈り物をしたり(例えば『江戸府内絵本風俗往来』に「町家工商の子弟手習ふ師の元へ上巳(三月三日)の祝儀に赴く」とある)、新入生の土産物を寺子全員に配った。師匠入門する際の礼物を「束脩(そくしゅう)」と言ったが、岡本綺堂『江戸に就いての話』にこうある。

「束脩は一朱、或いは二朱で、一分持って行くのは余程大きな町家に限られていた。御新造には砂糖を持って行く。これは白に定まっていた。そのほか子供たちにといって、最中・煎餅のたぐいの菓子を持って行った。金のない弟子ならば、束脩は免除してもらっても、子供たちへの菓子は持って行くことにしていた。」

 その他、寺子の月代(さかやき)を剃ってやったり、養生のためにお灸を行った寺子屋、毎月数回師匠の妻が手製の食べ物を子どもたちにふるまうような寺子屋もあった。

 さらに手習い師匠との絆は生涯にわたって続いたようだ。

「原則として一度弟子入りすれば、一生出入りすることになっていた。従って盆暮れはもちろんのこと、婚礼の場合まで係わりを持つことになっていた。『一に師匠、ニに旦那寺』と云って珍しいものがあれば、分配するのが例になっていた。」(岡本綺堂『江戸に就いての話』)

  「師の恩は目と手と耳にいつまでも」

 字が読めること、字が書けること、漢文の講釈を受けたこと、それらは全て師匠から賜ったものである。

  「師の恩は実に炭銭(たんせん)より高し」

 燃料として貴重な炭、生計を支える銭よりも精神的に感化を受けたものはずっと価値が高いといっている。「七尺去って師の影を踏まず」という成語を踏まえたこんな川柳もある。

  「師の影は踏まぬが親の跡を踏み」

 師匠の影は踏まずにきちんと礼節を守ってきたが、親の家業を継ぐために、親の通った道は踏むことになったという意味だ。寺子屋を卒業してからも、何か相談事があると、師匠の参考意見を聞きに行くことがある。その時の師匠の返答ぶりを巧みにとらえた句。

  「まあそれにしておいたりと師匠言ひ」

 あまり断定的なことは言わずに、適当に言葉を濁している。婚礼や宴会にも師匠は招かれた。

  「師匠様諷(うたい)は余りよくもなし」

 謡を唸りだしたはいいが、調子はずれで上手でない師匠の姿。次の句は、久しぶりに師匠のところに顔を見せた元の女弟子に、時の経つことの早さに驚く師匠を詠んでいる。

  「師匠様子持ちに成るをうったまげ」

 また、いつ難儀に遭うかわからない困難さを伴った当時の旅は、はなむけとして多くの人たちが見送ったがそこにも師匠の姿がみられた。

  「旅立ちに師匠のまじる賑やかさ」

  「旅立ちの中に一人は師匠なり」 

 教え子の保証人になることもあったようだ。

  「師匠様親類書きの伯父になり」

 師匠が死んだ際には、教え子たちは、その遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って「筆子塚」(墓石が全体として筆の穂先のような形をしている)を建てたが、その数の多さからも子弟の絆の深さはうかがえる。人間的つながりの深さこそが教育力の根本だが、今の教育現場ではすっかり衰弱してしまった。

巌如春(いわお じょしゅん)『加賀藩儀式風俗図絵』昭和8年

『四時交加』寺子屋入門

『江戸府内絵本風俗往来』 上巳の祝儀

渓斎英泉「契情道中双六 見立よしはら五十三つゐ 石部 鶴屋内 三吉野」

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