「江戸の寺子屋と教育」10 年中行事(2)

 寺子屋では、三月三日「桃の節句」、五月五日「端午の節句」、九月九日「重陽の節句」も重要なイベントではあったが、五節句の中では七月七日「七夕」が最も盛大な行事であった。『東都歳時記』「武城七夕」などを見ると、この日江戸では空一杯に七夕の笹が立ち並び、圧倒されるような壮観な光景だった。

「七夕祭とて、色紙結ひ付たる竹に、酸漿を幾箇となく数珠の如くつらねたるを結び、又色紙にて切たる網、並に色紙の吹流し、さては紙製の硯・筆・水瓜の切口・つづみ太鼓・算盤・大福帳などをつりて、高く屋上に立つること、昨日よりなり。」(『江戸府内絵本風俗往来』)

 この日寺子屋では、芋の葉の露を硯に入れて墨をすり、和歌や願い事をしたためた五色の短冊を笹へ掛け、書の上達を願った。芋の葉の露を用いることの由来については『五節供稚童講釈』にこうある。

「昔よりする事なり。七夕様、一年一度会ひ給ふゆえに、一夜に百人の子を儲け給ふといふ俗説によりて、子育て、または子を授け給へと祈る者、芋の葉の露にて願ひ事を短冊へ記して献ぐれば、願ひ事叶ふといふ。芋は子の沢山あるものゆえに、その葉の露を墨にすることと、昔の書に記せり。」

 この日に備えて、師匠は寺子たちに数日前から練習させた。

「この数日前より、幼童筆学の師は七夕の詩歌を手本に書して習わしめ、七夕を立つる色紙へ書きて上げる時は、筆道の上達するなど申し伝えたるなり。」(『絵本江戸風俗往来』)

    「天の川四五枚混じる御直筆」

  (模範に書いた師匠の短冊が、子どもたちの短冊の中にちらほら見える)

    「七夕の師匠の筆は上へ下げ」

  (師匠の短冊は、敬う気持ちから子どもたちのものよりも、竹の上の方に下げる)

 では、次の川柳は何を詠んでいるのか?

    「素麺の邪魔して洗ふ硯石」

 井戸端でそうめんを冷やしている所へ、使い終わった硯を洗いに来る場面。七夕に素麺を食べるのは、江戸の習俗として多くの句に詠まれているが、何時から始まったかは不明のようだ。

    「色紙の序でに素麺買ひにやり」

 その由来は古く、古代中国の話にまでさかのぼる説が有力だが、そうめんを天の川や織姫の織り糸に見立てて、七夕にそうめんを食べるという説もある。では「硯石」についてだが、七夕祭の前夜または当日朝、子供たちが習字や学問の上達を祈って硯・筆・机などを洗う「硯洗い」の行事が行われていたことに関わる。

「今の子供、七月六日に硯・机を洗ひて、七夕の短冊を書く事あり。その始めを尋ぬるに、七月六日、北野天神の神前へ、松風の御硯に筆・梶の葉を供える事あり。京の子供、常に用うる机・硯を洗ひ清め、梶の葉を添えて天神様へ供じたるを、江戸にも移りてせし事なるに、今がその元を失ひて、天神様へ供ぜず、七夕様の短冊を書くためとばかり、子供衆は思ふべし」(『五節供稚童講釈』「七夕に硯を洗ふ事」)

 ところで、7月7日の夜は、牽牛・織女の二つの星が天の川を渡り、1年に一度の逢瀬を楽しむと信じられていたが、江戸時代、この話を子供たちにどうやって教えていたか。『五節供稚童講釈』が参考になるが、ストレートというか、おおらかというか、読むと笑ってしまう。

「七月七日の夜、一年一度契り給ふといふ事、その趣を俗に申せば、天帝のお姫様に織女とて、機織る事が上手にて、・・・もはや年頃にもなりたれば、男も欲しからんとて、天の川の西に牽牛とて一人住む男星に、織女を妻(めあわ)せ給ひしに、あまり中がよすぎて、機織る事もせず、夜昼吸付いてばかりい給ひしゆえに、天帝大いに怒り給ひ、織女を呼び返し、この後は一年に一度、七月七日の夜、天の川を渡りて会いに行くべし。そのほかは決してならぬと、厳しく申付け給ひしゆえ、詮方なく年に一度を待ちわびて契り給ふとなり。」

『東都歳時記』「武城 七夕」

広重「不二三十六景 大江戸市中七夕祭」

広重「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」

国芳「稚遊五節句之内 七夕」

国芳「子供遊五節供のうち 七月」

清長「子宝五節遊 七夕」

清長「子宝五節遊 七夕」

『五節供稚童講釈』七夕の硯洗い

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