「ゴッホ、日本、キリスト教」3 ゴッホの「日本」(3)過剰なまでの思いこみ

 ゴッホは超人的な努力で絵を描き続け、ひたすら生真面目に勤勉に絵画に向き合った。画家になる決心をした27歳から死ぬまでの10年間、彼の絵は全く売れず、自分の力で食べることはできなかった。他の誰もがごく当たり前に行っている普通の社会生活も営めず、どんどん社会からドロップアウト。それでも、ゴッホはおのれの画家としての道を行きつくところまで行ききった感がある。不幸で悲惨な苦しみに満ちた生を完全燃焼させた。彼の人並外れた努力を支えていたものは何だったのか?それは、自分の夢(「過剰なまでの思いこみ」と言った方がふさわしい)、理想。アルル時代(1888年2月~1889年5月)で言えば、ユートピアとしての「日本」を見ること、そこで「日本人」のように兄弟愛に満ちた芸術家共同体を作ることだった。

 そしてゴッホの「日本」、「日本人」観の情報源は、当時フランスで出されていた日本関係の出版物だった。特に1887年に挿絵入りで出版されたピエール・ロティの異国趣味小説『お菊さん』は、すぐに大好評を博し、版を重ね、オペラ化もされていた。ゴッホもこの小説をことのほか楽しみ、弟テオにも妹ウィルにも読むように勧めている。この小説は、日本人に対する誤解や偏見に満ちているが、日本についての情報が乏しかった当時、ゴッホにもっとも生き生きと日本人の日常生活の様子を伝えたのは、この小説だった。

 しかし、さまざまな出版物からゴッホが紡ぎ出した「日本人」のイメージは、ロティの「日本人」イメージとも、ほかの誰が描き出したイメージとも異なる、全く独自のものだった。彼は、どのような「日本」、「日本人」を夢想していったのか?1888年9月末、ゴッホは弟テオへの手紙の中で、ジークフリート・ビングが刊行した月刊誌『芸術の日本』の文章やトルストイの『わが宗教』(1884年刊)についての評論(ルロワ・ボーリュー『両世界評論』)などにふれ、次のような日本人像を描いている。

「日本美術を研究すると明らかに賢者であり、哲学者であり、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。ちがう。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、ちがう。その人はただ一本の草の芽を研究しているのだ。しかし、この草の芽がやがて彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、山野の大景観を、最後に動物、そして人物を描かせることになる。彼はそのようにして生涯を過ごすが、人生はそれらすべてを描き尽くすにはあまりに短い。

どうかね、まるで自身が花であるかのように、自然の中に生きる、こんなに単純なこれらの日本人が教えてくれる者こそ、まずは真の宗教ではないだろうか。日本の美術を研究できるようになれば、もっともっと陽気に、もっと幸福になるだろうとぼくは思う。ぼくらは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」

 さらに、10日ほど後には、エミール・ベルナール宛手紙の中でこう述べている。

「日本の画家たちがお互い同士実際によく作品交換したことに、ぼくは前々から心を打たれてきた。これは彼らが互いに愛し合い、助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたということの証拠だ。もちろん、彼らはまさしく兄弟同士のような生活の中で暮らしたのであって、陰謀の中で生きたのでない。この点、彼らを見習えば、それだけわれわれもましになるのだ。また、日本人はごくわずかな金しか稼がず、単なる労働者のような生活をしていたようだ。」

 ゴッホにとって「日本人」とは、哲学者で、知的で、しかし自然科学者でも社会科学者でもなく、ただ自然の中に没入して一本の草の芽を研究し、まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きている。その人は「真の宗教」を教えてくれ、兄弟同士のような生活をし、わずかな金しか稼がず、労働者のような生活をしているという。これは、実はゴッホ自身の理想。彼は、「日本人」という核の周りに、自分自身のすべての理想を結晶化させて、自分の理想的人物像を作り出しているのだ。

ピエール・ロティ『お菊さん』 扉絵

ピエール・ロティ『お菊さん』 「ムスメ」の挿絵

ピエール・ロティ『お菊さん』挿絵

ピエール・ロティ『お菊さん』 「葬列の場面で先頭を歩く僧侶たち」の挿絵

1888年7月「仕事に行く画家」

1889年「自画像」ワシントン・ナショナル・ギャラリー

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