「ゴッホ、日本、キリスト教」2 ゴッホの「日本」(2)林忠正

 澄み切った空気、痛いほどの強烈な夏の日差し、木々も倒すほどの強風ミストラル。すべてが「過剰」なアルルにゴッホが惹かれるのはわかるが、そのアルルと比べるとすべてが穏やかと言っていい日本の姿は重ならない。ゴッホの「日本」観、「日本人」観はどのようなものだったのか?そしてそれはどのようにして形成されたのか?

 ゴッホが生まれたオランダは、西欧諸国の中で、鎖国中の江戸時代でも日本と深いかかわりを持っていた。1858年の開国以前、日本の文物はおもに長崎の出島を通してオランダと西欧に渡った。17世紀のオランダ静物画に日本の刀剣、漆器、陶磁器が描かれることは珍しくなく、富裕な商人などが「ヤポンセ・ロッケン」よ呼ばれた着物を仕立て直したガウンをまとっていた例(例えばフェルメール「地理学者」)を見ればわかるように、オランダ人にとって日本はかなり身近な存在だった。長崎出島の商館医だったシーボルトが日本を追放されてオランダに戻った時、持ち出した大量の民俗学、博物学資料は、1873年からレイデンの博物館に展示され、多くの人の目に触れることが可能であった。黒船が来航した1853年に生まれたゴッホは、オランダ国内のみならず、ロンドン、パリ、アントウェルペンといった大都市に住んだので、日本品を見る機会は少なからずあったはずである。

 特にロンドンとともにパリは、日本の開国後に日本美術品が最初にあふれた都市だった。1850年代の終わりごろから、来日した外交団のメンバーを中心に日本の美術品のコレクションがフランスにもたらされ、それらは出版物や私的な文化サロンなどで評判になっていった。そのため、中国や東南アジアの東洋品を扱っていた美術商がさっそくそれらに目を付け、1860年頃にはすでにパリのいくつかの店が日本物を扱うようになった。

 当然好奇心あふれた人々がそれらを買い求めに走り、カフェや文化サロンなどで情報は瞬く間に広まった。なかでも画家たちは、それらをただコレクションとして飾るだけではすまなかった。彼らは美術アカデミーが守り続けたルネサンス以来の主題のヒエラルキー(神話・宗教画・歴史画が優位に立ち、風俗画・風景画などが下位に位置する)と、それを形骸化した写実技法で表すことがあまりに時代感覚に合わないと感じ、その束縛から抜け出す方法を探っていたので、日本の浮世絵や絵本などから新たな表現方法を汲み取っていったのである。

 1886年にパリに出てきたゴッホにとって、親しんでいた浮世絵が簡単に手に入ることは大きな喜びであった。フィンセントが弟テオとともに住むルピック通りからさほど遠くない界隈には、日本から直接仕入れてきたフィリップとオーギュストのシシェル兄弟の店、浮世絵を屋根裏の部屋で自由に見ることのできるジークフリート・ビングの店、そして日本人林忠正の店などが点在していた。この林忠正とゴッホが面識があったかは証明されていないが、ゴッホが頻繁に出入りしていたショーシャ通りのビングの店から筋ひとつのところに店を構えていた林と接触した可能性は小さくない。

 林忠正は1878年第3回パリ万国博覧会に参加する起立工商会社が通訳を探しているのを知り、大学を中退してフランスに渡り、以後1905年に帰国するまで、おもに日本美術商として成功し、1900年には第5回パリ万国博覧会の日本の事務官長として活躍した。パリのみならず欧米の美術コレクターから深い信頼を寄せられ、商売のかたわら、ルイ・ゴンスが『日本美術』(1883年刊)、エドモン・ド・ゴンクールが『歌麿』(1891年刊)、『北斎』(1896年刊)を刊行した折には、日本の文献を翻訳するなどの貢献をした。ゴッホの「タンギー爺さん」の背景を飾る浮世絵風の画中画のうちの右下の女性像は、雑誌の表紙に複製された渓斎英泉の浮世絵の模写。そしてその雑誌とは、当時人気だった絵入り雑誌の一つ『パリ・イリュストレ』の日本特集号で、その全ページを執筆したのは林忠正だった。

『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号(1886年5月) 

  日本人自身による初の西欧向け日本紹介記事

1887ゴッホ「花魁(英泉による)」

1887年「タンギー爺さん」ロダン美術館

渓斎英泉「雲龍打掛の花魁」

林忠正 1900年

『芸術の日本』第1号 1888年5月 ジークフリート・ビングが刊行した月刊誌

フェルメール「地理学者」シュテーデル美術館 フランクフルト 

 着ているガウンは日本の着物を仕立て直した「ヤポンセ・ロッケン」 

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