「ゴッホ、日本、キリスト教」1 ゴッホの「日本」(1)アルルにみた「日本」
ゴッホの人生は短い。わずか37年。1853年に生まれた彼が画家になる決意をするのは1880年、27歳の時だから、画家として生きたのはわずか10年。しかも、「ファン・ゴッホ」としての色彩を獲得し、真に偉大な画家となるのは、南フランスのアルルに滞在したわずか15カ月の間のこと。ゴッホはこの短期間に200点にものぼる作品を生み出し、画家としてのピークを迎えることになる。
1886年2月20日、モンマルトルの画廊で働いていたテオ・ファン・ゴッホは、駅の赤帽から一通の手紙を手渡された。驚いたことに黒いクレヨンで書かれたその手紙は、パリに就いたばかりの兄フィンセントからのものだった。
「親愛なるテオ。突然やって来てしまったが怒らないでくれ。このことについてはずいぶん考えたが、結局こうした方が時間の節約になると信じている。正午すぎか、君さえよければ、もっと早くルーヴルへ行って待っている」
そしてこの2年後、またもや突然パリを発ったゴッホは1888年2月21日、南仏アルルの駅に降り立つ。彼は何を求めてアルルへやって来たのか?パリで芸術家として目をみはるほどの成長を遂げたゴッホだったが、いつものように周囲の人間との関係が、彼にとって耐えがたいものになっていたことは確かだ。芸術家同士の諍いにうんざりしていた。彼は「芸術家は団結すべき」と考えていたから。当時ゴッホは弟テオと同居していたが、そのテオに結婚の話があり、このままでは弟に迷惑をかけると思ったことも一因だったろう。やりきれない気持ちを「パリの噛み切れないビーフステーキ、階段、それにまずいワインにもう我慢できないんだ」とも言っているし、後にゴーガン宛の手紙ではこう書いている。
「パリを発った時、ぼくはひどくみじめで、すっかり病気で、酒におぼれていた。どうにもやっていけないと思うと酒で元気をつけるほかなかった。自分の殻の中に引込んで、なんの希望を持とうともしなかった」
しかしこれらはすべて、パリを離れる理由にすぎない。目的地をアルルに選んだ理由の説明にはならない。なぜゴッホは南仏アルルに向かったのか?そこには「日本」が大きく関わっていたようだ。
①(1888年3月 友人ベルナール宛書簡)
「君に便りをする約束をしたので、まずこの土地が、空気の透明さと明るい色彩効果のために僕には日本のように美しく見えるということから始めたい。水が風景の中でエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで浮世絵の中で見るのと同じような感じだ。淡いオレンジ色の夕日が地面の色を青く見せる。華麗な黄色の太陽。」
②(1888年5月 弟テオ宛書簡)
「真っ黄色のきんぽうげが一面に咲いた野原、緑の葉にすみれ色の花をつけたアイリスの生えた溝、背景には町、灰色の柳の木々、青い空が帯状に見える。・・・もし野原が刈り取られていなければ、この習作をやりなおしたい。主題がとても美しく、構図を見つけるのには苦労したからだ。黄色とすみれ色の花が一面に咲いた野原に囲まれた小さな町、まるで日本の夢のようだ」
③(1888年6月 弟テオ宛書簡)
「ぼくたちは日本の絵画を愛しその影響を受けている。このことはすべての印象派の画家たちについて言える。それなら、どうして日本へ、つまり日本にあたる南フランスへ行かずにいられようか。・・・しばらくここにいるとものの見方が変わるのだ。より日本的な眼で見ることができ、色彩の感じ方が変わるのだ。だから、ここに長く滞在しさえすれば、僕のような人格からも解放されるのだと確信している。」
④(1888年10月 友人ベルナール宛書簡)
「この冬、パリからアルルに来る道中に受けた感動は思い出してもまだありありと浮かんでくる。まるでもう日本に来たのじゃないかと目をこらしたほどだった!まったく子供じみていると言われるかもしれないが」
1887年夏「自画像」ゴッホ美術館
ジョン・ピーター・ラッセル「ゴッホの肖像」1886年 ゴッホ美術館
1888年3月「ラングロワの橋(アルルの跳ね橋)」クレラー・ミュラー美術館 オッテルロー
1888年3月「花ざかりの桃の木 マウフェの想い出」クレラー・ミュラー美術館
この絵を描き終えた頃、かつて絵の手ほどきをしてもらった従兄の画家アントン・マウフェの訃報に接した
1888年5月「アイリスのあるアルルの眺め」ファン・ゴッホ美術館 アムステルダム
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