「ナポレオンを育てた母と妻」14 エルバ島

 ナポレオンの没落を決定的にしたのは1812年のモスクワ遠征。ロシアに入ったフランス軍44万(60万とも言われる)のうち、領土外に出られたのはほんの数万人だった。ナポレオンが強い間は仲間のふりをしていた君主たちは、落ち目になったナポレオンに一斉に襲いかかる。義父にあたるオーストリア皇帝も例外ではなかった。そしてヨーロッパ連合軍との戦いに敗れたナポレオンは、1814年4月、フォンテーヌブロー城で退位し、エルバ島に流される(と言っても、「流罪」ではなくエルバ島の君主として)ことになった。

 マリー・ルイーズは連合軍がパリに攻め込んでくると、オーストリアへ避難するが、ナポレオンへの愛情が消え失せていたわけではない。エルバ島のナポレオンから手紙を受け取ると息子と会いに行こうとするもまわりが阻止。オーストリアはナポレオンとの関係を切りたかった。ローマ王を連れてナポレオンのもとに走り、退位したナポレオンの後をローマ王が継ぐことになるような事態は、なんとしても避けたかった。そのために、マリー・ルイーズの気持ちをナポレオンから引き離す手を打つ。彼女に愛人を与えたのだ。42歳の妻子持ちの隻眼の将軍ナイペルク伯爵。その道の達人として知られ、女性の噂が絶えない男。マリー・ルイーズは彼との愛慾生活に溺れ、ナポレオンから気持ちがはっきり離れる。ナポレオンがエルバ島から、いくら使者を出し、便りを送っても返事はなかった。ナポレオン死後、二人は極秘に結婚する。

 これに対して、レティツィアの思いはただひとつ。エルバ島に渡って、皇帝と一緒になること。彼女の子どもたちの愛し方は一貫していた。その時、最も不幸な子を最も愛すること。この時、その不幸な子はナポレオンだった。エルバ島に来た母のためにナポレオンは隣のヴァンティー二の邸を借りた。彼はまだすっかり幻想にとらわれていて、自分の家の空いている部屋は皇妃とローマ王のために取っておいたのだ。レティツィアは1814年8月18日にこう書いている。

「皇帝はわたしのために、自分の住居の隣にきれいな家を用意してくれました。毎夕、わたしたちは馬車で逍遙したり、彼のところの庭を散歩したりします。彼はテラスをつくらせましたが、そこからは海が一望できます」

 レティツィアはエルバ島でとても幸せだった。彼女は、長い人生ではじめて、完璧に自分に合った場にいるように思った。懐かしいコルシカのアジャクシオ以上に居心地がよかった。ここではコルシカのように一部住民(パオリ派)の敵意を甘受しなくてもよかったから。それに、エルバ島では、みんなイタリア語を話していた。フランス語よりもイタリア語の方がずっと表現が容易だった彼女には、これもうれしいことだった。しかしこの幸福の日々も長くは続かない。

 当初「わたしには、もはや大帝国への野望はない」と言明したナポレオン。エルバ島の君主として島の行政組織の構築、道路建設等々のために精力的に活動。しかし小島のエルバ島は、ヨーロッパ中を駆け回ってきたナポレオンには狭すぎる。「籠に入れられた鷲」状態で、次第に島の生活が疎ましくなる。ナポレオンはまだ45歳。

 ナポレオンに、再び権力掌握の機会が訪れる。その頃フランスでは、ルイ18世(フランス革命で処刑されたルイ16世の弟でプロヴァンス伯)の復古王政に国民が不満を抱き始め、ナポレオン時代を懐かしむ声が高まっていた。ルイ18世の政治は、所有権の不可侵、法の下での平等、出版の自由などは認められ、貴族院と制限選挙制による下院からなる二院制議会が設けられるなど、立憲君主政の形態をとっていた。しかし、王の周囲で復活した貴族たちは、「ウルトラ」といわれる保守派が大勢を占め、さまざまな形で共和派や旧ナポレオン派に対する粛清を行なった。

 ナポレオンはエルバ島を脱出してパリに向かう決断をする。それを知ったレティツィアは心臓が止まるほどのショックを受ける。すべてが楽しかった、平穏と安寧に包まれた生活が消滅しようとしている。しかし、誇り高く聡明なレティツィアはすぐに悟る。何ものもナポレオンを引き留めることはできず、自らの嘆きは息子の決断を妨げるだけだと。そして、こう言う。

「あなたの母親であることは忘れましょう!天は、あなたが剣を手に死ぬことしかお許しにならないのだろうから。毒薬をあおって死ぬことも、穏やかに天寿を全うすることも、天の思し召しではないのだろうから。数多の戦においてあなたを守り続けてくださった神様が、今一度お守りくださることをお願いしましょう!・・・そう行きなさい。あなたの運命のままに行きなさい。あなたはこんなつまらぬ島で死ぬようには生まれついていないのです」

 別れる直前、ナポレオンの召使いマルシャンは、レティツィアと二人だけの部屋でこう言われる。「息子をたのみますよ・・・」彼女は彼にキャンディーの壺を差し出す。その壺には、非常によく似た彼女の肖像画がついていた。「これをお持ちなさい。そしていつか、彼がいつも使っているのと取り替えるように。仮に運命が彼に背を向けても、彼を見捨てないように・・・」彼女は顔を両手でおおった。もはやマルシャンには彼女の嗚咽しか聞こえなかった。そしてその時が来た。ナポレオンは母とポーリーヌと最後の抱擁をした。ナポレオンの299日のエルバ島滞在は終わった。

エルネスト・メソニエ「1814年のフランス戦役でのナポレオン」オルセー美術館

エルネスト・メソニエ「1814年」ウォルターズ美術館 ボルチモア

ポール・ドラローシュ「1814年3月31日フォンテーヌブローのナポレオン」ロイヤルコレクション

フランソワ・ブショー「1814年4月11日フォンテーヌブローで退位に署名するナポレオン」

ヴェルサイユ宮殿フランス歴史博物館

アントワーヌ・アルフォンス・モンフォール「フォンテーヌブローの訣別」ヴェルサイユ宮殿

エルバ島の位置

エルバ島の海岸 (ポルトフェッライオ)

レオ・フォン・クレンツェ 「ポルトフェッライオのナポレオン」 エルミタージュ美術館

ナポレオンの家「ヴィラ・ムリーニ」とその庭園

ナポレオンが住んだヴィラ・ムリーニ  ポルト・フェッライオ

ナポレオンの夏の別荘サン・マルチーノ ポルトフェッラーイオ近郊  

「ヴィッラ・サン・マルティーノ」 ただしこの立派な建物はナポレオン死後の建築

オラース・ヴェルネ 「エルバ島のナポレオン」

ヨーゼフ・ボーム「1815年2月26日エルバ島を出発したナポレオン」

 ポルト・フェッライオ港からエルバ島を出発するナポレオン

0コメント

  • 1000 / 1000