「ナポレオンを育てた母と妻」13 レティツィアVSマリー・ルイーズ
1809年12月15日、皇帝の一室に、ナポレオンの一族の者が呼び集められた。皇太后レティツィア、オヌ、そしてポーリーヌ・ボルゲーゼ公妃である。ジョゼフィーヌを伴って皇帝が姿を見せる。彼女はすすり泣いていた。ナポレオンは一文を読み上げる。その一文には政治的な配慮と、情緒的な配慮とが混ざっていた。
「このような決心が、どんなにつらかったおとか!・・・・わたしはただ、わたしの最愛の妻の愛情、優しさに、満足せねばならない。彼女は私の人生の十五年間を、美しく彩ってくれた・・・・」
ジョゼフィーヌは彼女のために用意された宣言文を読み上げようとしたが、こみ上げる涙で続けることができなかった。国務大臣が、彼女に代わって、しまいまで朗読する。
「婚姻の解消も、わたくしの心からなる愛情をすこしも変えることはないでしょう。わたくしはいつまでも、皇帝の最良の友でありつづけることでしょう・・・・。わたくしたちはともに、祖国のためになした犠牲を光栄に思っております・・・・」
こうした光景をレティツィアはどううけとめていたのだろうか?彼女は冷たい心の持ち主ではなかったが、ジョゼフィーヌを哀れんではいなかった。彼女の考えでは、このようなジョゼフィーヌは当然のことになったまでであった。彼女が、ジョゼフィーヌを憎みだしてから、もうかなり長い年月が経っていた。彼女は勝利した。彼女がただちにリュシアンに書き送った手紙には、その喜びがはじけている。
「皇帝は皇妃と離婚します・・・・。ルイも妻(オルタンス)と分れます、離婚はしませんが・・・・。家族に対する皇帝の感情は、これまでとはすでにまったく違ったものになっていると言わねばならないと思います」
跡継ぎへの執着からジョゼフィーヌとしたナポレオンは、そして泥沼化しつつあったスペイン戦争に兵力をさくため、同盟関係を強化する意図もあったオーストリアの皇女マリー・ルイーズと結婚する。レティツィアはこの新皇后マリー・ルイーズをどう見ていたか?彼女は非常に頻繁に、新しい皇妃に会っていたが、皇妃は彼女にとっては、心の底では興味のないひとだった。マリー・ルイーズがチュイルリー宮に入った時、レティツィアは自分のほうから彼女のところに最初に挨拶に行くことは受け容れなかった。「わたしはあのひとの義母です」と、彼女は言った、「挨拶に来るのは皇妃のほうです。彼女がそうしなければ、わたしもいきません。これがわたしの流儀です」
ある日、チュイルリー宮の集まりで、ナポレオンが母親に接吻するよう求めて手を差し伸べた。レティツィアは、そっけないしぐさでその手を押し返した。
「わたしはあなたの皇帝ではないのですか?」と、ナポレオンは苛立って言った。
「ではわたしは」と、彼女は応じた、「わたしはあなたの母親ではないのですか?そしてあなたは、あなたはなによりもわたしの息子ではないのですか?」
ナポレオンはそれで、陽気になった。急に母親の手をとると、それに接吻した。マリー・ルイーズは驚いたようだった。「わたくしは、母上」と彼女は言った。「ウィーンではわたくしは、オーストリア皇帝のお手に接吻しておりましたわ!」
レティツィアは彼女に重々しく答えた。
「あそこでは、あなた、オーストリア皇帝はあなたの御父上でした、でもここでは、フランスの皇帝はわたしの息子です。そういう違いです」
マリー・ルイーズは期待通り息子「ローマ王」(ナポレオン2世)を生んでくれた。しかし、ナポレオン失脚がわかると息子とともにウィーンに戻ってしまう。
ロバート・ルフェーブル「ナポレオンの母レティツィア」マリア・レティツィア・ボナパルト
フランソワ・ジェラール「マリー・ルイーズとナポレオン2世」ヴェルサイユ宮殿
ポット「ジョセフィーヌに離婚の決意を伝えるナポレオン」
アンリ= フレデリック・ショパン「1809年12月15日 離婚式」ウォレスコレクション
ブノワ「ローマ王(ナポレオン2世)」
ナポレオンとローマ王
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