「ナポレオンを育てた母と妻」10 ジョゼフィーヌVSレティツィア①

 ナポレオンには妹が3人いたが、長女エリザは20歳になっても結婚できず(当時、その年齢ではコルシカでは娘たちはみんな結婚していた)母レティツィアの心配の種だった。エリザは、醜いとは言えなかったにしても、とても美しいとは言えなかった。痩せすぎて、ぎすぎすした堅物の女性。ところが、そんなエリザにもようやく求婚者が現れたのだ。35歳の大尉で、フェリックス・バッチョキ、コルシカ人。ただしバッチョキ家は熱烈なパオリ派、反フランス派。だがレティツィアは、彼が同郷人だと知ると、もう過去のことや政治的な争いのことなど何ものでもないと感じる。自分の親しいコルシカ語で話ができ、アジャクシオを、コルシカを思い出すことができるのだから。エリザ本人も自分に夫ができる喜びでいっぱいだった。求婚者が、35歳でまだ大尉であるとか、上司たちから「無能だ」と判断されているとか、ぼってりした目鼻立ちのせいでいかにもとんまにみえるとかいったことなど、重要なこととはならなかった。

 レティツィアは、この結婚のことを知らせるべくナポレオンに手紙を書く。ナポレオンは猛反対。バッチョキは、イタリア方面軍最高司令官の妹の結婚相手ではない、というのである。レティツィアはどうしたか?家長には従わねばならないというコルシカ的伝統にひどく反してはいたが、ナポレオンの反対を押し切ることに決める。1797年5月1日、マルセイユでエリザは結婚した。あとは、どうやってナポレオンにこの結婚を認めさせるか。イタリアにいる長男ジョゼフと三男ルイに手紙を書き、ナポレオンが自分たちをよんでくれるように依頼、結婚のことは一切伏せて。ナポレオンは好意的な返事をよこす。レティツィアは家族(もちろんバッチョキも)を連れてマルセイユを発ち、ミラノのセベローニ邸でナポレオンと再会する。そして、外交手腕を発揮してナポレオンにやさしくこう説明する。エリゼの結婚に反対している彼の手紙は受け取ったけれどもそれはかなり遅く、そんなわけで結婚式はすでに終わってしまっていた、と。不満顔のナポレオン。彼は家族をモンテ・ベッロ城へ連れて行く。そこで、母親の懇望のまえに、うんざりして、とうとうエリザの結婚に同意。実は、この和解にはレティツィアがそれほど期待していなかったある人物の骨折りがあった。ジョゼフィーヌである。

 ジョゼフィーヌというのは、どんなことをしてでも愛されたい(しかも、みんなから)というような女性のひとり。最初の日から、彼女は義母の心をとらえようと一生懸命になった。そのために彼女は、ナポレオンにバッチョキとの結婚を認めるように勧めたのだ。しかし、不幸なことにレティツィアにはジョゼフィーヌのすべてが気に入らなかった。彼女が寡婦であること、結婚して1年半になるというのにまだナポレオンの子どもをつくらないということ、彼女の生活ぶり、着るもの着かた、話かた、彼女の友人たち、それに彼女の犬たちまで、すべてがレティツィアには不快だった。それだけではない。ナポレオンがミラノのほうに呼ばれた時、イポリット・シャルルという名の大尉が必ず姿を見せることに注意していた。嫁の私生活にたえずこの男がちらちらすることがレティツィアには不快であった。

 ただし、ジョゼフィーヌはこのモンテ・ベッロの城館で見事なほどの客あしらいのよさを示した。根っからの女主人ぶりを発揮した。パリの新聞もこう書いた。

「いまだかつて、イタリアでの彼女ほどの評判につつまれた女主人はいなかった」

 しかし、この城の中で、そしてまた王侯のような暮らしぶりの中で、レティツィアは心の底ではほとんど楽しんでいなかった。彼女のジョゼフィーヌへの憎しみは募る一方。いまや彼女は嫁の不行跡を知ったのだったから。レティツィアはフランスに解放されたコルシカに戻る決心をする。息子と別れの言葉を交わす段になって、彼女はためらう。ジョゼフィーヌの行動をナポレオンに知らせたものか?彼が全イタリア方面軍の嘲笑の的になっていていいものか?しかし、ナポレオンには、妻への愛、信頼、情熱があふれんばかり。結局彼女は何も告げずイタリアを去った。

レティツィア・ボナパルト

フランソワ・ジェラール「ジョゼフィーヌ」マルメゾン城

マリー=ギエルミーヌ・ブノワ「トスカーナ女大公エリザ」ヴィッラ・グイニージ国立博物館 ルッカ 

 ナポレオンの妹エリザは、後にルッカおよびピオンビーノ公国の女公、トスカーナ大公国の女大公となる

ステファノ・トファネッリ「フェリックス・バッチョキ」

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