「ナポレオンを育てた母と妻」2 コルシカ島とマルチニーク島
フランス本土ではなく島で生まれた点では、レティツィアとジョゼフィーヌは共通している。片やフランスのニースから170㎞の地中海上にあるコルシカ島(ナポレオンが生まれる1年3か月前にジェノヴァ共和国からフランスに割譲)、片やフランス本土からはるか遠く離れた(約6,800㎞)カリブ海の西インド諸島のひとつマルチニーク島。フランス本土の人間からすれば、ジョゼフィーヌもレティツィアと同様に「異邦人」だった。しかし、これらの島は、二人を全く異なる個性の女性に育てた。
「ジョゼフィーヌは徹底したフランス女だった。浪費家で、お洒落で、社交にたけ、嘘をつくのが上手で、愛に盲目で、人生を楽しむことを知っていたジョゼフィーヌには、良妻賢母からはほど遠い、フランス女ならではの可愛らしさがある。」(川島ルミ子『ナポレオンが選んだ3人の女』)
これほど的確にジョゼフィーヌを捉えた表現を知らない。そして「徹底したフランス女」の骨格はマルチニーク島とその家庭環境によって育まれた。ジョゼフィーヌの実家タシェ・ド・ラ・パジュリ家はもともとフランスの貴族だったが、軍勤務がうまくいかなかった祖父が一獲千金を夢見マルチニーク島へ渡る。しかし、夢は実現せず、島で亡くなる(母方もフランス貴族の出で、父方よりも以前に島に移住)。父親の代になっても祖父の夢は実現せず、小さなサトウキビ畑の収益で生活する貧しい小貴族だった。父ジョセフ・ガスパールの財産と言えば、この住み心地の悪い家と、数十アールのサトウキビ畑と、20人程度の奴隷だけ。しかもこのささやかな財産も、いつも借金取りに狙われていた。
しかし、このような陰気で気の滅入るような家で生活しながら、父親は酒と女に明け暮れ、気ままな生活。母親も多くのクレオール(西インド諸島、中南米などで生まれ育ったヨーロッパ人。特にスペイン人、フランス人をいう。)の例にもれず、なにもせず、化粧、昼寝、水浴に時間を費やしていた。家事どころか、三人の娘の世話もしようとせず、子育てはジョゼフィーヌのいいなりになる甘い乳母にまかせっきり。そんな育てられ方をしたジョゼフィーヌは、自分の好悪のままに動くくったくのない野生児そのもの、強烈な陽光を浴びてすくすく育つ生命力あふれる草木のようだった。
「遊び友だちと言えば、主人の娘である彼女を何かにつけてたてまつる、原住民の女の子たちだった。・・・彼女たちとの接触により、よくないことを教わり、猥談を耳にし、これにクレオールに特有の早熟な性質が加味され、性的なものに対する感覚が彼女の中でいち早く目醒めていった。そして、彼女の周囲にあるすべてのもの、気候、暑い夜、水浴、繁茂する木々、強い草いきれ・・・・等々が、彼女の性的感覚を競って呼び醒ましたのである。
ごく幼いころから、ジョゼフィーヌはおしゃれだった。長い時間鏡を手に過ごしたり、水浴を終わり水から上がると、澄んだ水に身をかがめてはその姿を映すのだった。どうすればその幼い肉体で優美な線が出せるかしなを作ってみたり、ポーズをとってみたり、花や木の葉で身を飾りたてたりするのだった。黒人の遊び仲間の子どもたちが、青い目、ブロンドの髪、白い肌の彼女にうっとりみとれているのを感じると、彼女はなんともいえぬ楽しい気分になるのだった。彼女は気の赴くままにぶらぶらしたり、ハンモックに寝転んで夢想にふけったり、様々な色の羽毛で身をおおった鳥が優雅に空を舞うのを目で追ったり、素晴らしい景色にうっとり眺め入ったりするのが好きだった。」(ジャック・ジャンサン『ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとその時代』)
では、レティツィアはどうか?彼女はこんな島で生まれ育った。
「コルシカ。山から海が立ち現れる。険しく、厳しい国。ひとの記憶する限り、戦闘、苛烈な戦いしか思い出されない。侵略者との戦い、戦う彼ら自身もまた侵略者の出なのだ。そして自然との戦い。ひとは、ここでは、この島の似姿をとる。彼らは、イタリア人でもなく、サルデーニャ人でもない。彼らは、コルシカ人だ。」(アラン・ドゥコー『ナポレオンの母』)
ロベール・ルフェーブル「レティツィア」ナポレオン美術館 ローマ
ロベール・ルフェーブル「ジョゼフィーヌ」マルメゾン城
コルシカ島とマルチニーク島
ポルト湾付近から見たコルシカ島の風景
マルチニーク島
「ジョゼフィーヌ皇后像」 サヴァン広場 マルチニーク島
1850年代(ナポレオン3世)に建てられ、1991年に斬首され、2020年に反植民地主義活動家によって破壊された
「ジョゼフィーヌ皇后像」 サヴァン広場 マルチニーク島 1914年
「破壊されたジョゼフィーヌ皇后像」 サヴァン広場 マルチニーク島 2020年7月
0コメント