「ヒトラーとは何者か?」17 政治家への道(6)ミュンヘン一揆

 ナチ党が発展できたのは、バイエルンの特殊な環境が背景にあった。1920年3月、ベルリンで旧軍将兵の一部がヴァイマール共和国政府の打倒と軍部独裁を求めてクーデター(首謀者2名の名をとって「カップ=リュトヴィッツ一揆」、通称「カップ一揆」)を起こした。政府はこれを鎮圧するために軍に出動を要請したが、軍はこれを拒んだ。政府は首都を逃れ、国民にゼネストを訴えた。1200万人の労働者を巻き込んだゼネストは都市機能と国民経済を麻痺させ、クーデターはわずか4日で挫折した。この時、クーデター派の残党がバイエルンに流れ込む。この混乱の中でバイエルン州知事に選出された保守派の大物、グスタフ・フォン・カールのもとで、バイエルンは共和国政府への対決姿勢を鮮明に打ち出していく。

1921年から翌年にかけて、蔵相、外相ら政府の要人が次々と右翼の凶弾に倒れると、「敵は右翼にあり」と叫ぶ共和国首相の指示で、過激な反体制勢力の取り締まりを容易にする「共和国防衛法」が成立する。しかし、バイエルン州政府は、この法律を州権限への侵害と捉え、バイエルン州での適用を拒否した。

 ドイツがこのような状況にある中、1922年10月、イタリアで国家ファシスト党が決起した。党首ムッソリーニは政権奪取を目指して党の武装部隊「黒シャツ隊」による「ローマ清軍」を敢行。政府は進軍を阻むため国王に戒厳令の発令を要求したが、国王はこれを拒否してムッソリーニに組閣命令を下した。ファシスト政権の誕生である。

 この知らせに衝撃を受けたヒトラーは、ドイツで同様の可能性を探る。そしてチャンスは翌年にやって来た。1921年4月に、連合国賠償金委員会はドイツが支払うべき賠償額を1320億マルクと決定した。1921年は10億マルクと現物による支払いを行なったが,22年度分の支払いについてはめどが立たず支払猶予を申出た。しかしこれを拒否したフランスは1923年1月ベルギーとともにドイツ随一の工業地帯ルール(当時、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部)を占領し、現物取り立てに踏み切った。政府は一切の引き渡しを禁じ、占領軍への協力を拒む「消極的抵抗」を指示。経済は麻痺したが、共和国政府は紙幣の増刷で危機を乗り切ろうとしたため、空前の通過インフレが引き起こされた。戦後のインフレですでに低落していたマルクは1923年11月には1ドル=4兆2000億マルクにまで下落した。

 外国軍の占領にドイツの世論は激昂し、いつ戦争が再開してもおかしくないという危機意識が深まる。1923年8月、経済的危機の中で内閣が倒壊し、代わってシュトレーゼマン(人民党)を首班とする「大連合政権」(ヴァイマール連合+人民党)が発足した。財界との太いパイプを持つ首相は9月、「消極的抵抗」の中止を宣言し、財政再建と国際協調を訴えた。これに反発するバイエルン州政府は、内乱の勃発に備えると称して非常事態宣言を発し、反共和国の急先鋒、グスタフ・フォン・カール(首相は辞任していた)をバイエルン州総監に任命。カールは共和国打倒を目指して動き出す。しかし間もなくカールは、「ベルリン進軍」の成否の鍵を握る軍の最高司令官、ハンス・フォン・ゼークトが容易には動かないことを察知し、クーデター実行の先送りを決めた。

 このようなカールの動きに納得できないヒトラーは、無理やり彼を巻き込んで武装蜂起を敢行する。これが、「ミュンヘン一揆」(1923年11月8~9日)と呼ばれる事件である。いったんは同調したカールだったが、軍指導部にヒトラーに同調する者が少ないことを知って翻意を決め、9日未明、バイエルン州総監としてクーデターの鎮圧命令を発した。負傷したヒトラーは知人宅に匿われたが、2日後に逮捕され、収監された。「カップ一揆」の失敗に続く、この2度目のクーデターの挫折で、右からの暴力革命の可能性は失われた。1924年12月24日に釈放されたヒトラーは、政治活動を再開するに当たり、それまでの議会外での武装闘争から、議会制の枠内で選挙を通じて政権獲得を目指すことに方針転換する。そして1924年頃からの「相対的安定期」は党勢拡大に苦労するが、1929年の世界大恐慌をきっかけにナチ党は大躍進を遂げる。

1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判の判決の日  ヒトラーの左がルーデンドルフ

カップ一揆

グスタフ・フォン・カール

ローマ進軍を行うファシスト党員 1922年10月28日

ルール占領  エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)

撤退のためドルトムント市内を行進するフランス軍(1924年10月)

シュトレーゼマン フリーメーソンで妻はユダヤ人

ドイツ外相シュトレーゼマンとフランス外相アリスティード・ブリアン

 ルール問題を収拾しロカルノ条約の締結により二人はノーベル平和賞を受賞。ドイツは1926年に国際連盟に加盟。独仏の関係の緩和により、ヨーロッパ全土もしばらくの間、相対的安定期を迎えることになる。しかし1929年、シュトレーゼマンが急死し、直後に世界大恐慌発生して、状況は一変。ナチ党が大躍進を遂げていくことになる。

ハンス・フォン・ゼークト 

 参謀総長や陸軍総司令官を務め、1920年代前半のヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」である軍の権威を確立

エーリヒ・ルーデンドルフ 

 戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った

ミュンヘン一揆 ナチス武装集団に拘束される市会議員たち

ヒトラー 1923年

ミュンヘン一揆の失敗後、獄中で当書の執筆を開始。第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された。ヒトラーの自伝的要素と政治的世界の表明などから構成。ドイツでは、長い間発禁本となっていたが、2016年になって、学術的な注釈をつけた『わが闘争』が販売できるようになった。

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