「ベル・エポックのパリ」8 戦争への道(2)

 戦争は国内政治の矛盾を解決する一つの手段である。当時のヨーロッパで、この危険なギャンブルに賭ける状況に追い込まれていた国家は、複雑な民族問題を抱えるオーストリア=ハンガリー帝国と革命の脅威にさらされていたロシア帝国。フランスはイギリスとともにその状況から最もまぬがれていた。しかし、そのフランスにおいても戦争を辞さない強硬な外交路線が強まっていく。なぜか?

 1905年の政教分離を達成したのは急進社会党、社会党など議会の「左翼ブロック」。しかし、目標の実現によって「左翼ブロック」の存在理由がなくなると、階級対立が前面に出てくる。急進派の領袖クレマンソーが1906年に首相となり、「虎」の異名にたがわず、各地に頻発するストライキに対して流血をふくむ過酷な弾圧をして1909年に辞任。その後は、急進社会党は無原則なオポルチュニスト政治に逆戻りして、「左翼ブロック」は冷却する。ついで、対独強硬派で鳴らしたロレーヌ出身の温和共和派ポワンカレが、議会右派の支持で大統領に選出され(1913年)、政治の主要問題は国防問題に移った。

 国防に関するフランスの世論は、右翼、左翼、極左翼に分かれている。かつて植民地主義がアルザス・ロレーヌから国民の眼をそらさせるとしてこれに反対した右翼ナショナリストは、ドイツが植民地政策をとりはじめてからは植民地主義者となり、好戦的になる。その対極には、「祖国」よりは「階級」を優先させる反戦主義の極左翼がいるが、社会主義内部の少数派にとどまっている。

 ところで、フランスによって包囲網を形成されたドイツだが、英仏協商(1904年)によってフランスの優先権が認められたモロッコに対して二度の介入を行った。1905年の「第一次モロッコ事件(タンジール事件)」(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコ北端の港湾都市タンジールを訪問し、フランスのモロッコ進出を牽制したことによって生じた国際紛争)ではドイツはモロッコでの自国の利益の保持を主張したが、翌年のあるへシラス会議において事実上退けられた。また1911年の「第二次モロッコ事件(アガディール事件)」(ドイツが砲艦をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣したことによって生じた国際紛争)では、フランスはモロッコにおける自国の優位を認めさせるかわりにフランス領コンゴの一部をドイツに割譲し、翌年モロッコを保護領とした。

 すでに19世紀末からフランスでは右翼的なナショナリズムや愛国主義が台頭していたが、こうした植民地をめぐる対立は人々のドイツへの反感をさらに高めることになった。政府もドイツとの戦争を視野に入れた政策に乗り出し、1913年には軍備増強のために兵役が2年から3年に延長された。これに対して統一社会党のジョレスを中心に社会主義者や労働組合からは戦争反対の動きが起こるが、こうした反戦運動が事態を変えるにはいたらなかった。

 その理由は、社会主義者に戦争必至の認識がなかったことにもよるが、もっと深い理由は、「パトリオティズム(祖国愛)」の観念にある。すなわち、第三共和政下のフランス社会主義者は、彼らの階級的理念に応えるには共和国の現状はまだ不十分とはいえ、すでにいくつかの達成成果があり、したがって、この「祖国」は非民主的なドイツ帝国の攻撃から守るに値する、と考えた。

 オーストリア皇太子夫妻がセルビアのナショナリストに暗殺されるサラエボ事件がおこったのは、1914年6月28日。一か月近くの後の7月23日にオーストリアがセルビアに最後通牒を発し、そこから開戦の歯車が働き始める。フランスの参戦は8月3日である。

 この間、すべての関係国が世界戦争を予想していなかった。開戦の歯車を発動させたドイツすらイギリスの参戦を予想していない。フランスでは、中間階級がヴァカンスを楽しんでいた。そして、戦争が起こると、人々は」さほどの熱狂なしにそれを受け入れ、すべての国が、この戦争がこれまでと同様に数か月で終わるだろう、と考えた。

クレマンソー 1910年頃

ジャン=フランソワ・ラファール —「議会で演説するクレマンソー」1885年 オルセー美術館

虎として描かれたクレマンソー

1905年3月31日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世のタンジールへの入国

アガディールに派遣されたドイツ海軍の砲艦「パンター (SMS Panther) 」

第二次モロッコ事件におけるフランス軍 1912年3月30日モロッコ

レイモン・ポアンカレ 1913年

ジャン・ジョレス 1911年

 カフェ・クロワッサンでのジョレスの暗殺 1914年7月31日

オーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテク

「サラエボ事件」   暗殺場面を描いた新聞挿絵

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