「ギリシア神話と名画」2 ゼウスの支配権確立(1)「我が子を食らうサトゥルヌス(クロノス)」

 これほど鬼気迫る凄まじい絵、怖ろしい絵は見たことがない。ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」。漆黒の闇を背景に、裸の巨人が我が子をむさぼり食っている。灰色の髪をふり乱し、両目も、口も、鼻の穴も、もうこれ以上は無理というほど大きく開けた、サトゥルヌス。子どもはすでに頭部も右腕も食いちぎられ、血にまみれている。なめらかな胴体は、父の巨大な手で今にも砕かれそうだ。こんな絵、この世の地獄を見たものにしか描けない。しかも、ゴヤはこの絵をマドリッド郊外の別荘の食堂の壁に描いた。つまり、こんな血なまぐさいサトゥルヌスの姿を眺めながらゴヤは食事をとっていたのだ。この一事だけでも、ゴヤという人物、彼が生きた時代のスペインを知りたくなる。

 ところで、この絵はギリシア神話のどの場面を描いた作品か?サトゥルヌス(英語ではサターン)は、ギリシア神話のクロノスと同一視されるが、ティタン神族の末子クロノスはガイアの命を受けて、父ウラノスから王位を奪い取る。そして、姉のレアを妻に迎え支配者として君臨。この夫婦も両親と同じく、次々と子どもに恵まれていくが、クロノスは喜ぶどころか頭を抱え続ける。というのも、結婚に際し母ガイアと父ウラノスからこんな予言を聞かされていたからだ。

「おまえは父のウラノスから王位を奪い取ったが、それと同じように、おまえ自身もやがてレアから生まれる息子によって、王位を追われる運命に決まっている」

 こんな不吉な予言を聞かされたクロノスは、子供が成長しても自分の王位を奪うことがないように、なんと生まれる子を一人残さず飲み込むことにしたのだ(不死の神々を殺すことはできない)。女神三柱(ヘスティア、デメテル、ヘラ)と、男神ニ柱(ハデス、ポセイドン)を出生後すぐにクロノスに飲み込まれてしまったレア。しかしレアはまた妊娠する。彼女はその子を無事育て上げ、それまでのクロノスの非道に対して復讐しようと母ガイアに相談。ガイアは言う。

「おまえの願いは必ずかなう。なぜならクロノスは今お前が懐妊している子どもに、やがて王位を奪われる運命と決まっているから」

 ガイアは、そう言ってレアを励まし、どうすれば生まれてくる子をクロノスに気づかれぬよう無事に生んで育てることができるか、その方法をしっかり教え込んだ。ガイアによって勇気と知恵を得たレアは、出産のときを待って行動に出る。クロノスに気づかれぬよう、夜の間にクレタ島に移動し出産。やがて神々の王として君臨することになるゼウスの誕生。レアはゼウスをすぐにガイアに預け、自分は大急ぎでクロノスのもとへ引き返すと、用意しておいた大きな石を産着で包み、クロノスに手渡す。「これが、今度生まれたあなたの子です」そう言ってクロノスに渡すと、クロノスは何の疑いもなくその石を一飲みにしてしまった。

 一方ガイアは預かったゼウスをクレタ島の山の中の洞窟の奥に隠した。その地でゼウスはクレスと呼ばれる「勇ましい若者の精霊たち」に守られ、アマルティアという名の牝山羊の乳と、蜂蜜によって養育された。精霊のクレスたちは武装し、槍で楯をがんがん打ち鳴らしながら、ゼウスの周りで休みなく踊り続ける。赤児のゼウスの鳴き声が、洞窟の外にもれクロノスの耳に届くのを防ぐためだ。こうしてゼウスは逞しく成長していった。

 そしてある時、ガイアはクロノスへの逆襲ともいえる作戦の実行をゼウスに託す。使命に燃えるゼウスはクロノスの前に現れる。もちろんクロノスは自分の息子だとは思わない。子どもはすべて飲み込んだと信じていたから。そしてゼウスは、ガイアの教えにもとづいてクロノスをだまし吐き薬を飲ませる。ゼウスの身代わりの石、それからゼウスの兄たち、姉たちが次々に吐き出される。救出された五神にとって、末っ子であるはずのゼウスはまさしく救いの神であり、以後、出生の順序を越えてゼウスには長男に対するような敬意の眼差しが注がれていく。いずれにせよ、この救出劇によってゼウスにも神族と呼べるような血縁関係ができあがり、クロノス率いるティタン神族との間で、世界の支配権をかけた戦いが始まる。

ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス(クロノス)」プラド美術館

ルーベンス「我が子を食らうサトゥルヌス」プラド美術館

ダニエル・クレスピ「我が子を食らうサトゥルヌス」

ゴヤ「ユーディトとホロフェルネス」プラド美術館

 この絵も、「我が子を食らうサトゥルヌス」同様、別荘の食堂の壁に描かれた

ゴヤ「魔女の夜宴」プラド美術館

 この絵も、「我が子を食らうサトゥルヌス」同様、別荘の食堂の壁に描かれた

ゼウスの代わりに「産着に包んだ石」を渡すレア

プッサン「ゼウスの哺育」

 クレタ島で、アマルティアという名の牝山羊の乳を飲むゼウス

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