「ルノワールの女性たち」24 裸婦(3)

「ルノワールの女性たち」24 裸婦(3)

 1889年にルノワールはリューマチを患うようになり、この年から1893年まで自身の芸術の方向を再定義しようと努力していたために彼の制作量は著しく減少する。1891年に彼は次のように書いている。

「4日前に私は50歳になりましたが、光を追い求める者としてはやや年をとりすぎたかもしれません。しかし、私はやれることはやってきましたし、それだけは確かにいえるのです」

 1890年頃、ついにルノワールは後期の安定した様式に達する。虹のような色彩と真珠の輝きをもった画面が現れてくる。このことを特徴づけるモティーフが裸婦像だ。すでにリューマチによって体の麻痺がおこり、温泉療養や南フランスの気候が画家の体を少なからず支えていた。しかし、ルノワールにとって何よりもの薬は絵を描くことであった。病は体の自由を奪っていったが、絵にはますます自由闊達な雰囲気があふれていく。南フランスの光と海は、はるか古代、海から出てきたヴィーナスのイメージを画家にもたらし、彼は裸婦に取り組む。自然と裸婦との融合こそがルノワールの大きなテーマとなってくる。

 女性の肉体美についてのルノワールの有名な発言。

「もし女性の乳房とお尻がなかったら、私は絵を描かなかったかもしれない」

「私は″肉体″という言葉が大嫌いだ。・・・私が好きなのは肌だ。ピンク色で血のめぐりのいいのが見える若い娘の肌。しかし私がとりわけ好きなのはおだやかさだ」

「裸婦を見ると、無数の色合いを感じる。僕はそのなかから、カンヴァスの上で肌が生き生きと震えるようなやつを探し出さねばならない」

「女性をなでている時よりも、絵を描いている時の方が興奮している」

【作品47】「バラ色のヌード(水浴する女)」1891年 DIC川村記念美術館

 白い肌はルノワール自身の言葉によると「光をたたえ」、ふっくらした体には確かなボリューム感があり、細やかな筆触が画面全体をおおっている。暗い背景のおかげで、裸婦の肌の白さが際立っている。1880年代に追究したものの成果、印象派時代に得た光の感覚、ルノワール本来の持ち味、それらがすべて総合された。もはや情景は現実のパリとも神話ともつかないものになり、満ち足りた感覚のみが残っている。それでいてヌードは、現実のものとして触ることができそうな存在感を持っている。

【作品48】「長い髪の浴女」1895年頃 オランジュリー美術館

 水につかった裸婦の姿があらわされている。全体が調和するような色彩を用いているものの、もはや人物が風景に溶け込むことはない。

【作品49】「眠る女」1897年 オスカー・ラインハルト・コレクション

 「ルノワールが描いた裸婦の中でもっとも肉感的なもののひとつ」(パトリック・ベード)と評された作品。若々しい顔に魅力をたたえ、咲き誇るような肉体の裸婦。室内の光に全身を照らし出され、宝石箱のような想像上の部屋の片隅でくつろいでいる。その姿は自然で、作為のないもののように見えるが、その実、非常に見事に構成された構図にのっとっている。両腕の形作るアーチが、顔のところで均衡をとっており、背景の青が主題や掛布の男色の色合いを引き立たせている。

【作品50】「浴女」1903年 オーストリア美術館 ウィーン

 岩場に座り、足を拭く裸婦。水浴びを終えた後なのだろう。帽子や衣服がわきに置かれている。温かな色調で描かれ、女性の肌はバラ色に染まっており、岩さえも柔らかそうに見える。ルノワールは同じようなポーズをとる裸婦を3年間に4点ほど制作した。それらのモデルを務めたのは、妻アリーヌの従兄姉妹でお手伝いのガブリエル。晩年のお気に入りのモデル。

 ある種の現実感があり「背後から胸に手を回したくなるようなヌード」でありながら、あまりにわれわれの世界から隔たった、架空の、無時間的な地点に入るように見える。

1891「バラ色のヌード(水浴する女)」DIC川村記念美術館

1892「若い浴女」メトロポリタン美術館


1895頃「長い髪の浴女」オランジュリー美術館

1897「眠る浴女」オスカー・ラインハルト・コレクション

1903頃「ブロンドの髪の浴女」

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